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2016年08月11日00:25

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8月11日の日記

今日の出来事:紀元前3114年−長期暦(マヤ暦)の始まりの日、1564年−野尻池事件、1585年−四国征伐:長宗我部元親が豊臣秀吉に降伏し、秀吉による四国平定が完了、1868年−磐城戊辰戦争:八幡山の戦い、1945年−第二次世界大戦:久留米空襲、加治木空襲、1988年−アルカイダ結成

今日は、長期暦(マヤ暦)の始まりの日です。1日であるキン、20キンの「月」であるウィナル、18ウィナルの「年」であるトゥン、更に20トゥンを1カトゥンとし、20カトゥンを1バクトゥンとする単位で構成された結果として187万2000日(13バクトゥン、グレゴリオ暦の365.2425日で除すると約5125年)の周期となっています。そのため、石碑に長期暦で日が刻まれた場合にその日を特定できるという特徴を持っています。石碑に長期暦の日が刻まれたり、墓の壁画に長期暦の日付けが刻まれたりしていると、歴史学上、考古学上の貴重な資料となります。マヤの長期暦は2012年の冬至付近(12月21日〜23日)で終わるとされ、その日を終末論と絡めた形でホピ族の預言が成就する、「フォトンベルト」に突入すると言われています(2012年人類滅亡説)。しかし、GMT説に誤りがあり、2015年9月3日が正しいマヤ長期暦の終わりの日だという説が現れました。

次に、野尻池事件です。長尾政景は、1526年に長尾房長の子として生まれました。長尾景虎(後の上杉謙信)の遠縁に当たります。妻は長尾為景の娘(景虎の姉・仙桃院)です。1547年、府中長尾家家中で長尾晴景と長尾景虎との間で抗争が起こると、長尾政景は晴景側につきました。長尾政景が晴景の妹・仙桃院を娶っていた事や、上田長尾氏と対立していた古志長尾氏が長尾景虎側だった事からでした。1548年、長尾晴景は長尾景虎に家督を譲って隠居しました。1550年、長尾景虎が家督を継いだ事に不満を持って謀反を起こしましたが、1551年に長尾景虎の猛攻に遭って降伏しました。以後は配下の上田衆を率いて長尾景虎の重臣として活躍し、1556年に家督を捨てて出家しようとする長尾景虎を説得して押し止め、復帰させました。1560年には、春日山城の留守居役に任じられるなど様々な功を挙げました。宇佐美定満は、1489年に宇佐美房忠の子として生まれました。父の房忠は、越後守護・上杉定実の復権を目指して長尾為景と戦い、1514年に戦死しました。宇佐美定満は越後守護の上杉氏の一門である上条上杉家に仕え、1535年に上条定憲と共に上条上杉家の再興を目指して長尾為景と戦いましたが、1536年に春日山城下で敗北すると降伏しました。長尾為景の死後、その子の長尾晴景、そして長尾景虎(後の上杉謙信)に仕えました。1550年、長尾景虎に反抗した一族である坂戸城主・長尾政景を屈服させるのに功がありました。その後、上杉謙信の軍師となり、「上杉四天王」の一人となりました。1564年8月11日、坂戸城近くの野尻池で長尾政景と宇佐美定満が溺死しました。長尾政景は享年38、宇佐美定満は享年76でした。この事件には、舟遊びの最中、酒に酔っていたため溺死した説、かつて上杉謙信に敵対した事のある長尾政景を粛清するため、宇佐美定満が我が身を犠牲にして葬ったという説、上杉謙信の命を受けた宇佐美定満による謀殺説、下平吉長による謀殺説などがありますが、真相は分かっていません。同船していた家臣(国分彦五郎)の母の後日談では、引き揚げられた長尾政景の遺骸の肩下には傷があったといいます。国分彦五郎はこの事件で一緒に死んだといわれています。家督は早世した長男・義景に代わり、次男の顕景(後の上杉景勝)が継ぎましたが上杉謙信の養子となったため、山内上杉家と統合された形で上田長尾家は事実上断絶しました。

その次に、四国征伐:長宗我部元親が豊臣秀吉に降伏し、秀吉による四国平定が完了です。豊臣秀吉は、四国をほぼ統一した長宗我部元親に対し、降伏を勧告しましたが拒否されたため、四国征伐を決意しました。弟・豊臣秀長の軍を淡路島経由で阿波方面から、毛利氏傘下の小早川隆景・吉川元長の軍を伊予から、宇喜多秀家の軍を讃岐から、それぞれ侵攻させました。またこの際、長宗我部氏によって四国を追われた三好氏の残党なども秀吉軍に協力しました。
「讃岐」:宇喜多秀家が率いる備前・美作の兵に加えて播磨から蜂須賀正勝・黒田官兵衛、さらに仙石秀久が加わり計2万3000の軍が屋島に上陸しました。喜岡城の戦い:宇喜多秀家、仙石秀久らは喜岡城(当時の高松城)を攻撃しました。城主・高松頼邑は200の軍勢で玉砕しました。植田城の戦い:城主・戸波親武が守りました。植田城の守りの堅さを見た黒田官兵衛はこれを放置して阿波攻撃を優先する事を主張し、他の諸将もこれに同意して大坂越えより阿波に入り、羽柴秀長軍と合流しました。
「伊予」:毛利輝元の軍勢3万〜4万が向かいました。小早川隆景の第一軍が今治浦に上陸し、続いて吉川元長・宍戸元孝・福原元俊らの第二軍が上陸しました。丸山城の戦い:城主・黒川広隆が守りましたが、小早川隆景の軍に包囲されて降伏しました。金子城の戦い:続いて小早川隆景は金子元家の弟・元春が守る金子城を攻撃しました。金子元家は2000の兵で交戦しましたが、落城しました。高尾城の戦い:金子城を落城させた小早川隆景は、高尾城に進軍しました。高尾城は金子元宅が守っていました。要所に陣取った毛利軍は攻撃を開始し、城内の兵も果敢に立ち向かい、双方に多数の戦死者を出す激戦となりました。野々市原の戦い:高尾城の金子元宅は、城に火を放ち600の兵で討って出ました。ここに両軍入り乱れた最終決戦が行われ、奮闘虚しく金子元宅はじめ金子軍の武将はことごとく討ち果てました。こうして毛利軍の勝利に終わりました。高峠城の戦い:続いて、毛利軍は高峠城を攻めました。高峠城の重臣達は幼君・石川虎竹丸を土佐に逃がした後、討って出て全滅しました。仏殿城の戦い:毛利軍はさらに進軍し、妻鳥采女正が守る仏殿城を攻めて開城させました。その後、小早川隆景は進路を西に転じ、周敷・桑村・越智・野間・風早郡を制圧して道後平野に達しました。河野通直の湯築城を攻囲しました。湯築城は、小早川隆景の薦めにより開城し、河野通直は道後の町に蟄居しました。小早川隆景配下の桂元綱は喜多郡の諸将を攻め、帰順させました。西園寺公広・大野直昌は小早川隆景の元に赴いて降伏し、大野直之・曾根宣高らは捕らえられました。こうして伊予全域の制圧が完了しました。
「阿波」:羽柴秀長が率いる大和・和泉・紀伊の軍勢3万は堺から船出し、海路で洲本に至りました。羽柴秀次が率いる摂津・近江・丹波の兵3万は明石から淡路へ渡り、両軍は福良(現・南あわじ市)で合流して大小800余艘の船団で阿波の土佐泊へ上陸しました。対する長宗我部方は木津城に東条関兵衛、牛岐城に香宗我部親泰、渭山城に吉田康俊、一宮城に谷忠澄・江村親俊、岩倉城に比江山親興、脇城に長宗我部親吉をそれぞれ配しました。木津城の戦い:羽柴秀長の軍は阿波上陸後、まず木津城を攻撃しました。八昼夜にわたる攻撃の上、蜂須賀正勝によって水の手が絶たれたため、城将の東条関兵衛は秀吉方についた叔父の東条紀伊守の説得に応じて開城しました。東条関兵衛は土佐へ退きましたが、立腹した長宗我部元親によって切腹させられました。牛岐城の戦い:長宗我部元親の弟・香宗我部親泰が守備しました。城兵は必死に抵抗しましたが、羽柴秀長軍の大軍が入れ替わり立ち替わり攻め続けた為、ついに開城して土佐へ逃れました。一宮城の戦い:羽柴秀長は讃岐から参陣した宇喜多秀家軍を加えて一宮城を攻めました。一宮城は北城と南城からなる城で、南側に鮎喰川が流れる天然の要害となっていました。北城は谷忠澄、南城は江村親俊が、合計5000の兵で守っていました。羽柴秀長は、自ら一宮城攻撃の指揮を執りました。筒井定次・藤堂高虎・蜂須賀正勝・増田長盛など5万の兵に兵糧攻めをさせました。また、城への坑道を掘り、水の手を断つという奇策も行いました。これに対し、谷忠澄と江村親俊は降伏を決意し、開城しました。谷忠澄は羽柴秀長の意を受けて、白地城の長宗我部元親に降伏を説得しに行きます。脇城の戦い:羽柴秀次の軍が包囲しました。長宗我部元親の叔父・長宗我部親吉が守備しましたが、黒田官兵衛の櫓から城中に向けて鉄砲を撃ちまくるという精神戦術で追いつめられて、人質を差し出して土佐に帰還する事を条件にして城を明け渡しました。しかし、長宗我部親吉は土佐への帰還の途中、貞光川の栂橋で土豪の南源六・南八蔵父子によって殺害されした。岩倉城の戦い:羽柴秀次軍は、岩倉城にも攻め掛かりました。城将・比江山親興は防戦しましたが、黒田官兵衛の攪乱戦法によって降伏し、土佐へ退きました。
「土佐」:長宗我部元親降伏:一宮城の落城後、白地城へ戻った谷忠澄は長宗我部元親に、羽柴軍の兵力差や武器の質の差を説いて降伏するよう勧めました。長宗我部元親は、一度も決戦せずに降伏する事は恥辱であり、たとえ本国まで攻め込まれても徹底抗戦すべきであると主張し、降伏を勧めた谷忠澄を罵倒し、切腹を申し渡しました。しかし、谷忠澄は一歩も引かずに重臣たちを説き伏せ、最終的には家臣連名で長宗我部元親に再考を願いました。こうして谷忠澄ら重臣一同の説得を受け、長宗我部元親もついに折れ、羽柴秀長の停戦条件を呑んで降伏しました。長宗我部元親は土佐一国を安堵され、阿波・讃岐・伊予を割譲する事になりました。

その次の次に、磐城戊辰戦争:八幡山の戦いです。平潟へ上陸した新政府軍は、開田で仙台藩兵と「遊撃隊」の軍と交戦して撃破しました。さらに岡山藩兵302名と柳河藩317名が平潟に到着しました。増援を得た新政府軍は薩摩藩、大村藩、佐土原藩に両藩を加えて1500名になりました。列藩同盟軍も援軍を送りこみました。中村藩は7小隊と砲一門を磐城平城に送り、会津若松に駐屯する米沢藩1大隊も援軍を派遣しました。この地域を重視する仙台藩は参謀に古田山三郎を任じ、桃生郡小野領主の富田将監、桃生郡小郡領主の富田小五郎、柴田郡船岡領主の柴田中務の三名に各1大隊を委ね、計3大隊は海路で小名浜を目指しました。中村藩兵が磐城平城に到着すると湯長谷に駐屯していた「遊撃隊」と仙台兵は鮫川を渡って大島へ出撃しました。列藩同盟軍は八幡山に陣を構えました。関田に駐屯していた岡山藩が単独で鮫川を渡河して、八幡山へ攻め込みました。列藩同盟軍の守りに、岡山藩兵は攻めあぐねました。そこへ九面村方面から薩摩12番隊が駆けつけました。岡山藩兵の援護に回って新政府軍は形勢を建て直しました。さらに柳河藩が到着するにおよんで、列藩同盟軍は防衛を断念して撤退しました。こうして新政府軍が八幡山を確保して戦闘は終了しました。

最後に、第二次世界大戦:久留米空襲、加治木空襲です。
久留米空襲:1945年8月11日午前10時20分頃から約20分間、雲ひとつない青空に一機の戦闘機が福岡県の久留米に焼夷弾を投下しました。米艦載機「B−24」、「B−29」、「P−26」、「P−38」の約150機による空襲で、町に真っ黒な煙が立ち込めて酸素不足と火災による熱風で、大混乱となりました。この空襲で久留米駅が全焼、死者214名、重軽傷者176名、罹災戸数4506戸、被害面積は市街地のおよそ70%に達しました。
加治木空襲:1945年8月11日、アメリカ軍の「A−20爆撃機」18機が、鹿児島県の加治木に焼夷弾投下と機銃掃射を行いました。延べ19万7000坪が焼失、死者26人を出しました。この中には旧制加治木中学校(現・加治木高等学校)の生徒15人が含まれていました。この空襲により、加治木市街地の広い面積が焼失し、主要な官公庁もほぼ焼失しました。

今日の誕生日:宝井其角、木戸孝允、吉川英治、古関裕而、安西篤子、小林亜星、岸恵子、レツゴー正児(レツゴー三匹)、中尾彬、浅利香津代、ハルク・ホーガン、孫正義、吉田戦車、槙原寛己、山本昌、松村邦洋、黒沢健一(元L⇔R)、飯田覚士、喜多嶋舞、小林綾子、福田充徳(チュートリアル)、千葉すず、西川晃啓(レギュラー)、池辺愛(元モエヤン)、松尾翠、山上佳之介(山上兄弟)、木本花音(SKE48)

今日の記念日:ガンバレの日、マッシュルームの日、山の日、きのこの山の日、LIGHT UP NIPPON

今日の「今日訓」:本日は、第1回「山の日」です。「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する日」で2016年より祝日となりました。また、「山の日」にあやかって2016年から正式に「きのこの山の日」となりました。「LIGHT UP NIPPON」です。「東北を、日本を、花火で、元気に。」をスローガンに「東日本大震災」の被災地となった岩手・宮城・福島の太平洋沿岸十数箇所で、8月11日19時に鎮魂と復興の祈りを込めた花火を一斉に打ち上げます。2011年8月11日から今年で5回目となります。1936年8月11日にベルリンオリンピックの女子200m平泳ぎ決勝で、ラジオの実況をしていた日本放送協会の河西三省アナウンサーが前畑秀子選手に「前畑ガンバレ」と20回以上連呼し、日本中を沸かせました。前畑秀子は優勝し、日本人女性として初めての金メダルを獲得しました。この事から「ガンバレの日」、日本で初めてマッシュルームの栽培に成功し、「キノコ栽培の父」と呼ばれた森本彦三郎の誕生日(1886年8月11日)から「マッシュルームの日」となりました。

リオデジャネイロオリンピック情報「柔道90kg級:ベイカー茉秋が金、柔道70kg級:田知本遥が金、体操男子個人総合で 内村航平が金、女子200mバタフライで星奈津美が銅」
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