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2016年08月09日06:56

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長崎の意味:原爆は誰の罪なのか

誰の罪、という発想から脱しよう。人類全体の問題とするために。すでに70年前に、永井博士は、そう、訴えていた。
以下数年間の日記


浦上天主堂のそばには、如己堂、永井博 士の記念館がある。 彼に関しては、誰でもご存知だと思う が、 「長崎の鐘」が出版された経緯に関して は、すずめも考えた事が無かった。

以下、WIKIより抜粋。

永井隆の原爆後の発言....「原子 爆弾が浦上に落ちたのは大きな御摂理で ある。神の恵みである。浦 上は神に感謝をささげねばならぬ」

崎の鐘)と述べ、「原爆投 下は人類の罪悪の償いの生贄」

主張した。この主張でいけ ば、「帝国主義侵略戦争を始め、最終的 に戦争に敗北し、その過程 で原爆が長崎に投下された」という日本 の責任と、「国際法を無視 し、残虐な兵器を用いて住民を虐殺し た」アメリカの責任が免責さ れる。....アメリカの言論統制を潜り抜。 。。 -----長崎の鐘が発表されたのは、1949年。当 時はGHQの統制下だった。 1946年8月には書き上げられていたが、 GHQの検閲によりすぐには出版の許可が 下りず、GHQによるマニラ大虐殺の記録 集である『マニラの悲劇』との合本とす ることを条件に発表されたという。

原爆を「神の摂理」としたのは、検閲を 逃れるための方便だったのだろうか。

今回、記念館を訪れて、なんとなく、方 便ではなく、本心であったのではないか と、すずめ的には思った。 なぜなら、

永井博士は原爆の落ちる2ヶ月前、白血 病で死の宣告を受けていた。すずめもこ の件は子供の頃読んだ彼の著作の中で記 憶している。当時、放射線科医師だった 彼は、結核の検診に携わっていた。

し戦時中のこと、フイルムや現像液が無 い。彼はレントゲンに映った像を直接目 で見て診断していた。一日に何百人も。 その放射線は彼の身体を蝕み、あと3年 の命であると6月、診断されたのだっ た。 その時に妻緑さんが言ったことが、紹介 されていた。 「生きるにしても、死ぬにしても、神様 の世のみ栄えの為にね。」 夫の死をもこんな風に受け入れてしまう 考え方。 信仰の力は計り知れないが、 私たちとは違った大きな視点を感じる。

原爆の災厄を、 アメリカの「罪」にせず、 神の摂理にすることにする。 これは自然なことだったのかもしれな い。

これと似た思想を、ヒロシマも掲げてい た。 特定の国/アメリカを敵とするのではな く、 核兵器の禍を廃絶する。

広島の方針は分からないが、 この声は被爆者自身から出たものだとい う。 永井博士の「神の摂理」論も、 個人的な思想であるのかもしれない。

だとする考え方もある



社会的な「方便」

が、 個人的には、本音であると感じる。

時を経て今、 核は、どこかの遠い国が昔犯した罪では なく、 今日、今の時代を享受する私たちにつな がる問題でもある。

11時2分で止まった時計 この後、時を刻むことはない





■長崎原爆の被爆校舎をライトアップ 投下日の9日まで
(朝日新聞デジタル - 08月08日 06:41)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=4132808
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