mixiユーザー(id:48382454)

2016年06月15日00:34

192 view

6月15日の日記

今日の出来事:745年−遷都:聖武天皇が都を難波京から平城京に戻す、1189年−衣川合戦、源義経追捕の宣旨により藤原泰衡が衣川館を襲い、源義経は自害、1579年−三間表の戦い、1868年−会津戊辰戦争:第二次白河攻防戦、1896年−明治三陸地震(M8)が発生、大津波により甚大な被害、死者27000人(日本最大の津波被害)、1904年−日露戦争:常陸丸事件、1945年−第二次世界大戦:第四回大阪空襲

今日は、衣川合戦です。源義経は、郎党や愛妾の白拍子・静御前を連れて吉野に身を隠しましたが、追討を受けて静御前が捕らえられました。逃れた源義経は、反鎌倉の貴族・寺社勢力に匿われて京都周辺に潜伏しますが、和泉国で叔父・源行家が鎌倉方に討ち取られ、各地に潜伏していた郎党達も次々と発見されて殺害されました。京都に居られなくなった源義経は、藤原秀衡を頼って奥州の平泉へ行きました。藤原秀衡は関東以西を制覇した源頼朝の勢力が奥州に及ぶことを警戒し、源義経を将軍に立てて鎌倉に対抗しようとしましたが、病没しました。源頼朝は藤原秀衡の死を受けて後を継いだ藤原泰衡に、源義経を捕縛するよう朝廷を通じて強く圧力をかけました。藤原泰衡は鎌倉の圧力に屈して、「源義経の指図を仰げ」という父の遺言を破り、500騎の兵をもって10数騎の源義経主従を、藤原基成の衣川館に襲いました。源義経の郎党たちは防戦しましたが、ことごとく討たれました。この時、多数の敵勢を相手に武蔵坊弁慶は、源義経を守って堂の入口に立って薙刀を振るって戦い、雨の様な敵の矢を受けて立ったまま絶命しました。「弁慶の立往生」と後世に語り継がれる事になります。館を平泉の兵に囲まれた源義経は、一切戦う事をせずに持仏堂に籠り、自害して果てました。享年31でした。

次に、三間表の戦いです。長宗我部元親の家臣・久武親信は、その誠実な性格から重用されて佐川城を与えられました。中内氏、桑名氏と共に家老職を務めました。有馬温泉で羽柴秀吉と会見しました。1577年、南伊予方面の軍を担当する総指揮権「伊予軍代」を与えられ、川原崎氏を討ちました。1579年、久武親信は宇和の西園寺公広の家臣・西園寺十四将の一人、三間の大森城主・土居清良を攻めました。大森城の支城・岡本城を攻撃中に、土居清良の奇略に遭って討死しました。弟・親直に危惧を抱いており、討死する直前に長宗我部元親へ「自分が戦死しても、弟の親直は腹黒き男で御家の害になるので後を継がせないように」と言い残しました。しかし、長宗我部元親は久武親直に家督を継がせ、伊予軍代に任命しました。これが、長宗我部家滅亡の元凶となりました。「戸次川の戦い」で長宗我部元親の長男・信親が戦死して家督相続問題が起こると、久武親直は四男・盛親を支持し、反対派の吉良親実や比江山親興を讒言して粛清しました。「関ヶ原の戦い」で西軍が敗北すると、長宗我部盛親に徳川家康への恭順を勧め、兄・津野親忠を殺すように進言しました。このため、長宗我部盛親は兄殺しを徳川家康に咎められて改易されました。このため、久武親直は稀代の奸臣と言われる事になります。

その次に、会津戊辰戦争:第二次白河攻防戦です。会津藩兵と「新選組」によって奪われた白河城を奪回するため、新政府軍の伊地知正治隊は、手持ちの兵力で白河城奪回を試みました。参謀・伊地知正治、部隊長・野津鎮雄、川村純義の率いる新政府東山道軍は「宇都宮城の戦い」に勝利し、宇都宮を拠点として確保していました。新政府軍は薩摩藩兵を中心とし、大垣藩兵、長州藩兵、忍藩兵で構成されていました。新政府軍は宇都宮から大田原まで進軍していましたが、会津による白河城占拠を知った江戸からの指令で、そのまま白河へと前進しました。そして、新政府軍は白坂口へ奇襲をかけましたが、会津藩兵と斎藤一が率いる「新選組」はこれを迎撃しました。新政府軍は長雨でぬかるんだ田地に足をとられ、行軍の疲労や土地勘の無さも重なって損害を出して芦野へ撤退しました。この戦いで、元新選組隊士で薩摩藩四番隊に属していた清原清が戦死しました。

その次の次に、明治三陸地震(M8)が発生です。1896年6月15日午後7時32分30秒、岩手県上閉伊郡釜石町(現・釜石市)の東方沖200kmを震源として起こりました。地震に伴って、本州における当時の観測史上最高の遡上高である海抜38.2mを記録する津波が発生し、甚大な被害を与えました。大津波の第一波は、地震発生から約30分後の午後8時7分に記録されました。到達した範囲は北海道から宮城県にわたりました。死者・行方不明者は合計2万7000人、家屋流失が9878戸、家屋全壊は1844戸でした。この地震を機に「三陸海岸」という名称が広く使用され始めました。

そのまた次に、日露戦争:常陸丸事件です。日露戦争中に玄界灘を西航中の、後備近衛歩兵第一連隊本部および第二大隊(第八中隊)および第十師団の糧食縦列を乗せた陸軍徴傭運送船「常陸丸」が、ウラジオストク巡洋艦隊所属の3隻の装甲巡洋艦に追撃され、降伏を拒否して撃沈された事件です。監督将校海軍中佐・山村彌四郎および輸送指揮官歩兵中佐・須知源次郎ら将兵を乗せた「常陸丸」は、沖ノ島付近で濃霧の中を突如として現れたウラジオストク艦隊に遭遇し、攻撃を受けました。敵艦の砲撃は猛烈で、第一連隊は直ちに小銃で反撃しました。しかし、圧倒的な攻撃力の差は如何ともし難く、山村彌四郎中佐、イギリス人船長ジョン・キャンベル、機関長ジェームズ・ヒュー・グラス、運転士サミュエル・ジョゼ・ビショップも相次いで敵弾に倒れました。山村中佐、船長、機関長、一等運転手が相次いで倒れ、死傷者が続出しました。須知源次郎中佐は敵艦が近距離にあり、施すべき策の無いことを察し、連隊旗手・大久保少尉に軍旗を焼却させ、重要書類を焼き、第二大隊長・山県俊信少佐その他とともに屠腹自決しました。戦死者の総計は1063名、船は敵弾のため火災を起こし、沈没しました。乗員中37名は漁船に救助されました。悲壮な乗員の行動は、大日本帝国軍人の立派な最期として万世に伝えるべき事蹟であるとされました。靖国神社境内に慰霊碑があり、引き上げられた遺骨の合同墓が青山霊園にあります。遺族には閣議決定により特に弔慰金が支給されました。この事件により国内世論は沸き立つ事になりました。

最後に、第二次世界大戦:第四回大阪空襲です。第四回大阪空襲は、1945年6月15日8時44分から10時55分までの約2時間10分、行なわれました。米軍の照準点は、阪神本線・出屋敷駅付近、国鉄福知山線支線・金楽寺駅付近、西淀川区・神崎大橋南詰、鶴橋駅付近、天王寺駅付近の5か所でした。この空襲では、「B−29」計511機が来襲し、大阪市や尼崎市をはじめ、堺市や布施市(現・東大阪市)、豊中市、守口町(現・守口市)などに被害を及ぼし、死者477名、負傷者1842名、焼失4万9千戸の被害を出しました。

今日の誕生日:高山彦九郎、小林一茶、永野修身、ユーリ・アンドロポフ、金田龍之介、藤山寛美、平山郁夫、伊東四朗(元てんぷくトリオ)、斉藤清六、細川たかし、村上義則、八重樫幸雄、岩崎良美、春やすこ、江川ほーじん(元爆風スランプ)、ラッシャー板前、大林素子、オリバー・カーン、吉岡稔真、チャンカワイ(Wエンジン)、ミムラ、上田桃子、ソンモ(超新星)、石田未来、今野杏南、miwa、南沢奈央、武田梨奈、有原栞菜(元℃-ute)、剛田武(ジャイアン)、磯野ワカメ

今日の記念日:信用金庫の日、暑中見舞いの日、オウムとインコの日、米百俵デー、千葉県民の日、栃木県民の日、生姜の日

今日の「今日訓」:本日は、「千葉県民の日」です。明治政府により、「廃藩置県」が実施されると26県という多数の県が誕生しました。これを、新治県・木更津県・印旛県の3県に統合しました。次いで、印旛県と木更津県の合併により千葉県が誕生、県庁が千葉町に開設されました。千葉県権令には柴原和が就任しました。新治県の茨城県編入に伴い、千葉県であった結城郡・猿島郡・岡田郡・豊田郡の4郡と葛飾・相馬両郡の一部を茨城県に譲渡し、香取郡・匝瑳郡・海上郡を旧新治県から編入しました。次いで葛飾郡のうち江戸川以西(北葛飾郡の一部)を埼玉県に移管し、さらに香取郡の利根川以北が茨城県に編入されました。これにより、現在の千葉県が確定しました。「栃木県民の日」です。明治政府により、「廃藩置県」が実施されると11県が誕生しました。宇都宮県・大田原県、黒羽県、烏山県、茂木県を統合して宇都宮県に、栃木県、壬生県、吹上県、佐野県、足利県、日光県を統合して栃木県としました。そして、宇都宮県と栃木県が合併して栃木県が成立、県庁が栃木町に置かれました。その後、上野国内3郡が群馬県の一部となって現在の栃木県となり、県庁が宇都宮町に移されました。生姜は、奈良時代から神様への供え物として献じられ、6月15日に感謝の祭りが行われてきた事から「生姜の日」、1870年、長岡藩へ支藩の三根山藩から贈られた米百俵の代金で「国漢学校」が開校した事を記念して「米百俵デー」、1950年、郵政省が初めて「暑中見舞用郵便葉書」を発売した事で「暑中見舞いの日」、1951年に「信用金庫法」が公布された事で「信用金庫の日」、「06(オウム)と15(インコ)」の語呂合わせで「06(オウム)と15(インコ)の日」となりました。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する