バプテスマ(洗礼)とは、キリスト教の礼典の一つニャ。
宗派によって、解釈は様々なようですね。
ここでは、聖書に従って意味を考えていきたいと思うのニャ。
キリスト教におけるバプテスマ自体は、聖書によれば洗礼者ヨハネからイエスが受けた故事に由来するとされるニャ。
そう言えば、ヨハネにバプテスマを受けた人たちもイエスの弟子になるにあたって、バプテスマを使徒から受けなおしていますね。
ヨハネのバプテスマも天の神である御父に由来しているのは確かだが、使徒たちはイエスから受けた権能に基づくというところが違っているけどニャ。
この話の前に、まず、イエスのバプテスマで何が起きたのかを、振り返る必要があるニャ。
イエスが洗礼者ヨハネのところにバプテスマを受けようとしたとき、ヨハネは、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けようとしてきたのを見て、彼らに言っていたニャ。
「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教えたのか。」
パリサイ人やサドカイ人がバプテスマを、立場上受けに来たにすぎないと見抜いていたのニャ。
心から神に清めと許しを求めてきた人以外に、バプテスマを受ける資格がないことを洗礼者ヨハネは言いたかったのニャ。
ここを踏まえて、次の話を聞いてニャ。
マタイによる福音書3章 13節から15節
そのときイエスは、ガリラヤを出てヨルダン川に現れ、ヨハネのところにきて、バプテスマを受けようとされた。
ところがヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った、「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか」。
しかし、イエスは答えて言われた、「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」。そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした。
どうニャ。
洗礼者ヨハネの戸惑う姿が、目に浮かびますね。
悔い改めも清めも必要がないはずのイエスが、バプテスマを受けたいと望んでいる…。
すると、奇跡が起きるのニャ。
マタイによる福音書3章 16節から17節
イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。
そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
どう思うかニャ。
イエスは生まれた時から神の御子であったはずねえ。
それなのに、天の神である御父の声がこう告げたのニャ。
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」
これは事実上、天の神である御父による新たな教会の設立宣言であって、イエスをその会員第一番に確認したと告げた瞬間と言ってよいニャろね。
天の神である御父は、イエスの下に新たな教会を設けると、宣言したわけですね。
洗礼者ヨハネは、天の神である御父がイエスの下に新たな教会を設けるための道を備えるために遣わされた預言者だったわけニャ。
聖書にはこうあるニャ。
マタイによる福音書3章 1節から3節
洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、
「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。
これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
イエスの下に新たな教会に加わるためにはイエスから召された使徒たちによるバプテスマを受けることが必要だったのニャ。
さて、なぜ、イエスの下に設けられた新たな教会に加わるために、使徒たちからバプテスマを受ける必要があるかを見ていくニャんね。
マタイによる福音書 10章 1節
イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。
バプテスマを受けるとは、罪から洗い清められることだが、洗礼者ヨハネのバプテスマとイエスや使徒たちによるバプテスマの決定的な違いは聖霊が受けられるかどうかなのニャ。
バプテスマのあとで聖霊を受けられるためには、天の神である御父からイエスの名によって受けた権能のある人が間に立つことが必要なのね。
聖書には、こうあるニャ。
ヨハネによる福音書 15章 16節
あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。
聖霊を受けさせることができる権能を授かるには、神から召されなければならず、それには神に召された預言者の存在が欠かせないってことニャねえ。
イエスも、救世主(メシア あるいは キリスト)として召されただけでなく、預言者としても召されているニャ。
しかし、バプテスマを受けることは、単に、教会員としての確認の儀式をうけるにとどまらない意味をもっているのニャよ。
それを、次に見ていくニャ。
ローマ人への手紙 6章 3節から4節
それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。
すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。
バプテスマを受けるとは、実は、イエスとともに贖罪の死と復活をしているのだということニャね。
イエスの贖罪の死と復活により、永遠の過去から永遠の未来までの全ての人に、罪からの清めが神から認められるわけね。
ただしそれには、バプテスマを受ける必要があるわけニャねえ。
バプテスマを受けることにより清められたので、その人の一生の罪は神の御前でなくなったので、たとえ何年も道に迷って神から離れてしまったとしても、悔い改めて神の導きについていく道を選ぶなら、神は許してくださる。
ルカによる福音書15章にある、有名な放蕩息子の譬えをみれば、よくわかることと思うニャ。
全ての人は神から見て、みな、放蕩息子ですから、神は戻ってきてくれた人々をみな「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」として、心から受け入れてくださいます。
そして、心の迷いによって神のもとを離れ何年も彷徨っていたとしても、天の神である御父は、一度バプテスマによって我が子として受け入れた人々に再びバプテスマを受けることはもはや求めないニャ。
バプテスマを受けることで、人は一生の罪からの清めが受けられるわけね。
ただしそれには、絶えず悔い改めを忘れないことと、象徴としてイエスの血と肉の証を受ける聖餐式に努めて参加することが求められているけどニャ。
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