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2016年05月23日10:24

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目を見張る、寧波梁祝文化園の変貌『梁祝古墓』

目を見張る、寧波梁祝文化園の変貌『梁祝古墓』
http://blog.liangzhu.jpにもアップ・

今回の寧波招待に同行していただいた「梁祝(リャンチュウ)会」の広報部長Tsukaさんのブログで「寧波でのこと」を取り上げていただきましたので、またまた転載です。

Tsukaさんのブログの後ろに渡辺の「梁祝古墓」の説明文の翻訳と変遷を付け加えさせていただきました。
http://musuidokugen.tea-nifty.com/
以下はTsukaさんのブログ転載です。

2016年5月22日 (日)

寧波に贈る「梁祝会」を揮毫。

先月、中国・寧波政府の招待を受け、「梁祝文化研究の専門家」として
中日韓のシンポジウムを終え、無事帰国しましたが、

寧波空港でお別れの際、「中国梁祝文化研究会」会長の周静書先生からメモを渡され、日本梁祝文化研究所・贈として「梁祝会」の揮毫を頼まれました。

あっという間に1ヶ月経ちましたが、渡辺先生に現地への郵送をお願いしました。
きっとこの書は、永久保存されるでしょう?

そういえば、渡辺先生はブログでこんな嬉しいことを(笑)…「書家でもある塚越さん、随所で揮毫を頼まれ、改めてその書の凄さを知らされました。」

右の写真は、開幕式典会場にて渡辺明次先生の写真と説明の前で。

左端が周静書会長。
私の隣が、5年前、鎌倉での戯曲「梁祝」でヒロイン祝英台を演じた青井聡子さん。
そして、北京駐在時代からずっと協力をされてきた正谷絵美さん。

我が日本「梁祝会」の活動は、昨年末の忘年会以来止まっているので、近々に報告会を予定しています。

実のところ、飲み会中心なのですが、新規に協力してくださる方も募って
活動を充実させようと思う次第です。(^^;ゞ


以下
渡辺の「寧波文化園変貌シリーズ」を付け加えさせていただきました。
今回は「梁祝(リャンチュウ)古墓」の変貌ぶりです

梁祝古墓の変遷写真、もとはガラス張りで覆われていたがオープン展示に変わっていた。
古墓の説明が新しく付け加えられていたので、翻訳してみました。


『梁祝古墓』
梁祝(リャンチュウ)の墓は晋代の鄞県(ぎんけん寧波)知事梁山伯(リャンシャンボ)の墓が始まりである。『鄞県誌』の記載によれば、東晋の寧康(ねいこう)元年癸酉(みずのととり紀元後373年)に建てられた。

今を隔たること1600余年前、寧康(ねいこう)三年己亥(つちのとい紀元後375年)の春の終わり(旧暦の3月)、梁と同窓の祝英台(チュウインタイ)は上虞より船に乗り鄞県の西に嫁に行くことになりその途中、姚江(ようこう)の岸辺にある梁の墓を通りかかると、風波激しく巻き起こり船は進むことができなくなった。

そこで上陸して慟哭し悼み嘆き梁を弔う。英台は梁の墓の碑に突進し墓に吸い込まれるようにぶつかり愛情のために命を絶った。後に祝英台(チュウインタイ)と梁山伯(リャンシャンボ)があの世で添い遂げるようにと二人を合葬した。このことは時の朝廷にまで聞こえ、丞相(じょしょう宰相)の謝安(320-385年)はこれに“義婦塚”の称号を賜るように朝廷に上奏した。

すぐに梁の墓に“英台義婦塚”の碑が付け加えられた。これが世にあまり知られていない一つの墓に二つの碑がある原因であり、俗に“蝴蝶碑”と呼ばれている。もともとの二つの碑は、晋代安帝(あんてい、東晋の第10代皇帝)丁酉(ひのととり紀元後397年)の秋、孫恩(東晋の人物そんおん、? - 402年→孫恩の乱)の軍に碑は破壊され姚江(ようこう)に投げ捨てられ遺棄された。

しばらくしてこれは元に戻され恢復した。当時すでに民衆は梁県知事を清廉潔白な役人として敬い慕い、また梁祝の二人が愛情に忠節で信仰厚い態度に対して、それまでずっと敬虔誠実に祭り拝し、お香や線香の煙が絶えず、民衆の信仰は長く維持され、千年余に渡り続いた。

1960年代にいたり、穀物倉庫を建設するときに、梁祝の墓は壊され平らにされ墓の上に建物が作られた。併せて二つの碑は壊し取り除かれ、その他の石材は穀物倉庫の建築材等に使われ、今に至るまでその跡はわからなかった。

1997年6月この状況への緊急処置として古墓の発掘が行われた。幸いにも古墓の本体はまだなお大半がそのままであり、また少量の陪葬品及び数片の骨も発見された。この墓は今は、国の文物保護単位とされ、この現状のまま保護され、誰でもが見ることができるものとして公開されている。 2012年9月


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