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2016年05月19日10:38

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太平洋戦争に至る過剰防衛。

<■9条巡り党首討論 平和主義「壊れる」「貫かれている」
(朝日新聞デジタル - 05月18日 23:05)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=3999092

日本が獲得した海外領土は大きく分けて5種類。
台湾、朝鮮、満州、中国、第二次世界大戦中の占領地。

台湾は、1895年、日清戦争の戦利品として得た。
当時台湾は清国の役所はあったものの、戦略的な拠点ではなく、日本の防衛上の意味も薄く、
中国側も「台湾ぐらいなら仕方ない」という感じであった。
その証拠に、朝鮮半島の付け根にトゲのように突き出す遼東半島は、
のちにロシアなどの脅迫により返還させられている。
日本としては、ここの港を海軍が使うことで防衛力を発揮したかったわけだから、戦争で勝って外交で負けたのだ。

次は、朝鮮の併合。
最近の論争では言及されていないいないが、日清戦争にさかのぼることさらに10年、
日本政府は朝鮮政府(李氏朝鮮の末期だが)に対し、
再三の経済支援を行い構造改革による国力強化を訴えていた。
当時世界有数の軍事力を誇るロシアが南下政策をとり、
その一環として朝鮮を狙っていたからで、朝鮮が明治維新のような改革を経て強国になることを望んだ。
その証拠に、この時期日本は日清朝3か国で軍事協定を結ぼうとして、欧州に潰されているのだ。
しかし李氏朝鮮政府の腐敗は凄まじく、一向に進まない改革に日本も嫌気が差し、
ならば朝鮮も支配下に入れろという考えが台頭する。
当時の試算でさえ朝鮮半島の経済収支は赤字になる見込みで、反対論も根強かった。
朝鮮の方も内乱が頻発していて、日本の支配を受け入れようとする勢力もあった。
双方国内に禍根を残しながらも、1910年に日韓併合がなされる。
併合反対であった伊東博文を併合の責任者にするという日本式な処置の結果、
彼が暗殺されたのもこの時期だ。

台湾と朝鮮は、準国内、つまりアメリカから見たグアムのような扱いで、
一定の制約はあったものの同じ国民であった。

しかし、朝鮮を獲得したことで、日本の防衛線は広がる。
ロシアの南下政策は一旦共産主義革命で止まったが、
今度は共産主義という思想とともに前にも増して再開される。
北東アジア地域でこれを食い止めたいと考える日本は、
以前の「日本から見た朝鮮」と同じ構図で、大陸に防衛のための緩衝地帯を求める。
これが後の満州国である。場所はほぼ現在のモンゴル+中国北東部。
当時はまだ国ではなく、先進国8か国による共同対ソ連作戦、教科書的でいうシベリア出兵が行われていた。
またこの地域は当時の世界のフロンティアで投資も盛んに行われており、
のちにこの投資による権益の分配に失敗するあたりから、
世界の反発を受けて日本が孤立していく。
誤解も多いが、朝鮮の併合と満州国(まだ地域)の擁立は、当初は国際社会からの承認も得ていたのだ。
どこの国も同じようなことをやっていたから批判などできないし、
欧米はロシア(ソ連)の力を恐れていたので、利害が一致したのだ。

しかし、中国はそうはいかない。進出する日本は具体的な脅威である。
国力は抜かれ、満州国も勘定に入れれば領土の面でも追いつかれつつある。
これにより、以前は中国であった満州近辺で、日本人へのテロが頻発する。
通州事件に代表されるような、陵辱と虐殺の事件である。
日本から見れば、欧米も同じように中国に権益を得ていたのだが、
中華思想もあり(彼らの感覚では日本は格下なのだ)、
地理的な近さによる嫌悪感もあり、香港や上海でも同様の事件が起こるようになる。

これに逆上したのが日本国民である。
数百人単位の日本人が強姦され、手足を引きちぎられ、異物を突っ込まれて死ぬのである。
さらに間の悪いことに、内乱が始まっていた中国では、この虐殺行為を軍が主導した。
軍と言っても農民の寄せ集めで自国民にも乱暴するような連中であったが、
これに反撃する形で、上海事変が始まる(2度あるが、ここでは区別しない)。

実は、上海事変当時も、欧米は日本支持であった。
中国軍の暴徒による被害は上海の各国住民にも及び、各国の防衛部隊も撃破された。
軍の派遣が一番早かった日本に希望を託すのも当然である。

一旦近代的な日本の正規軍が上陸すると、たちまちのうちに中国軍は潰走する。
先述の通り中国の軍は時代遅れの農民の臨時寄せ集めで、
逃走防止のために建物に手足を鎖で繋いで銃を撃たせていたような有り様である。
近代的正規軍、しかも治安維持のために海兵隊のようなエリートを派遣していた日本に
勝てるわけもなく、焦土作戦として近隣の村々を荒らしながら撤退する。

上海事変が起こったのが1937年8月、南京大虐殺で有名な南京まで中国軍を追っていったのが12月。
いずれも、名目は防衛のための戦闘である。
日本人を虐殺した中国軍が、未だ捕まらず逃亡を続けているからである。
この後も、後退する中国軍を追って戦闘を続け、沿岸部を中心に占領地を得た。
準国内であった台湾・朝鮮、傀儡政権を作り、権益は握っていたものの、
別個の国であった満州国と違い、中国は単純な占領地であった。
組織的な日本化政策や、植民地化などは行われていない。
また、当時の一般的な形での植民地は、日本は持っていない。

1937年の上海事変に端を発した日中戦争では、
当初の支持を覆して国際社会は中国に与した。
中国のプロパガンダだという人も多いが、単純に日本はやりすぎたのだ。
南京攻略あたりまでは日本に好意的な部分もあったが、
それ以降一気に批判的な態度へとなっていく。
日中戦争はそんな欧米各国が中国を後押しする中、
決着がつかずずるずると続いていく。

1939年には、ドイツがポーランドへ侵攻し、第二次世界大戦が始まる。
ヨーロッパ諸国がアジアへ影響力を発揮する余力を失う中、
フィリピンを植民地(割と典型的な植民地)にしていたアメリカは、
中国沿岸を進んでいた日本軍の動きを特に嫌がった。
一方で日本は、中国を応援する欧米各国からの物資援助を断ち切りたかった。
ルートは2つ。西のチベット方向からのルートと南のベトナムからのルートだ。
さすがにチベットは遠すぎる。
日本はベトナムルートをふさぐため、ベトナム方向への進出を決定する。
これも防衛作戦なのだ。
ベトナムはフィリピンの真向かいだから、これによりアメリカとの対立は激化、
数ヶ月で太平洋戦争へと至る。

太平洋戦争では、日本は主にインドまでの陸地と、
タヒチなどの南太平洋を占領した。
米軍の反攻ルートは南太平洋から直線的に日本に向かったので、
終戦時もアジア大陸には多くの占領地が残っていた。
この間、数年にわたって日本の統治が行われたことになる。
日本の統治は住民の意に背くものだった、と自制的に書いておこう。
当時の記録でも、今の感情でも、対象となった国々の反応は
賛否入り乱れている、という感じで、アジアの解放者という雰囲気はあまりない。
その統治は教育や軍事、治安などは与えたが、主権はなく、
短い戦争期間中ということもあって、植民地としての整備もされていないし、
かといって国民に加わったわけでもない、宙ぶらりんな状況であった。
第二次世界大戦を区切りとした便宜上中国と分けたが、
これらの占領地においては、それほどしっかりした統治が行われていたわけではない。

長くなったが、日本は防衛の延長としての戦争を繰り返し、
最終的に収拾がつかなくなったと言って良い。
かといって、日本国民が数百人単位でなぶり殺しにされるような事件を
見過ごすことはできないだろうし、
領土的野心を持った大国の侵略が、自国に及ぶまで傍観するのも難しい。
利害によってくるくると立場を変える欧米諸国の態度は、
真の同盟などないことを示唆する。
防衛とは、外交とは、どの道に進んでも荊の道には違いない。

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