休みを取りながら、何気なくテレビを見ていて思ったのニャ。
テレビで本当に実力ある芸人だそうとしたら、一時間番組で数組に絞って拘束時間に見合ったギャラ出しても、今の日本でどれだけ視聴率とれるかニャよね。
最後まで付き合ってくれる数少ない視聴者にために、高い金かけてもペイしないから、結局、トークバラエティと情報番組頼みになるのではないかニャ。
活気のあった高度成長期でも、もっと本格的な芸をみせる人がテレビに出ていた気がするのニャ。
忙しいように見えても、心に余裕があったってことかしら。
今は忙しい上に心に余裕がない人が増えたってことかしら。
高度成長期の莫大な富は一体どこにいったのかしら。
少なくとも国民には来てないってことニャよね。
高度成長期の莫大な富が今でも国民の中にとどまって回っていれば、もっと国民はゆとりが持てているはずニャね。
その時期を知らない世代は実感がない以上、知っている世代が富の再配分の必要性を声を大にして訴えていくべきじゃないかニャ。
社会は人が作る、だから、人が変えられるはずよね。
民主国家の主人公は国民であって、政府のトップとは、公僕である公務員のトップなわけニャよね。
そこをはき違えていたら、それは「権勢症候群」つまり「ボスは自分と勘違い症候群」ってことよね。
主人の忠実な友であるべきという点では、犬も公務員も基本的には同じじゃないかしら。
公務員は基本的にポチで良いのではないかしら。
問題は、誰のポチかってことではないかニャ。
公務員は、国民、住民のポチとして、可愛がられる忠実な公僕であるべきと思うのです。
国民にとって「日本を取り戻す」とは、ポチであるべき公僕のリードを、アメリカと財界から、国民の手に取り戻すことじゃないのかニャ?
何がだれのためにあるのか、取り違えてしまうと、物事はおかしな方向に行ってしまうのでニャ。
箴言 3章 21節
わが子よ、確かな知恵と、慎みとを守って、それをあなたの目から離してはならない。
総理大臣も「国民の皆様の為に働かせていただきます」という言葉を、選挙期間中だけでなく国会の会期中にも言わなくちゃいけないのではないかなあ。
最近の首相の言い草は「国民に理解させる」って、目上の人には決して使ってはならない使役の助動詞平気で使っている、おかしいよね。
「権勢症候群」つまり「ボスは自分と勘違い症候群」そのものになっている総理大臣を、 国民は意識を変えて、主人は自分だと公僕の長としてしつけなきゃいけないのではないかニャ。
主人として、毅然としてなきゃだめではないかニャ。
やたら威張る必要はないけどニャ。
箴言 3章 31節
暴虐な人を、うらやんではならない、そのすべての道を選んではならない。
国民の側も、多様な声があるからと諦めることなく国民的な合意をじっくりと腰を据えて作っていく構えが必要ではないかニャ。
焦らずに合意形成していくことが、結局は近道じゃないのかニャ?
急がば回れ、急いては事を仕損じる。
昔の人良い事言っているニャんね。
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