mixiユーザー(id:1037907)

2016年05月02日20:11

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あわせられる?

自己責任論者って、実はまるっきり他人に責任転化しまくりの責任逃げまくりの無責任論者って思ってはいけないのかニャ。

自己責任で頑張って出来なくって助けを求められても何にもできない無能ぶりをさらけ出すのが怖い、弱虫って思ってはいけないのかニャ。

自己責任論って聞いていると、聖書のこの言葉連想するニャ。

マタイによる福音書 7章 3節〜5節
なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら自分の目にある梁を認めないのか。
自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。

マタイによる福音書 23章 15節
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。
あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。

自己責任論者が本当に強いなら、こう言えるのではないかニャ。

ローマの信徒への手紙15章1節
わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。

けれど、私たちはこう言えるほど、強いのかニャ。

むしろ自分の無能と無力をさらけ出して、それでも助けを必要とする誰かを助けたいから誰か手を貸してって、走りだしてしまう人の方が滅茶苦茶カッコいいって思ったら変かニャ。

そうやってみんなを巻き込んで一人じゃ出せない力をみんなに助けられて発揮できる人って羨ましすぎニャ。

こういう人は、聖書のこの聖句を思い起こさせてくれるニャ。

コリント人への第二の手紙 11章 30節
もし誇らねばならないのなら、わたしは自分の弱さを誇ろう。

コリント人への第二の手紙 12章 5節
わたしはこういう人について誇ろう。しかし、わたし自身については、自分の弱さ以外には誇ることをすまい。

コリント人への第二の手紙 12章 9節
ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。

コリント人への第二の手紙 12章 10節
だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。

コリント人への第二の手紙 13章 4節
すなわち、キリストは弱さのゆえに十字架につけられたが、神の力によって生きておられるのである。このように、わたしたちもキリストにあって弱い者であるが、あなたがたに対しては、神の力によって、キリストと共に生きるのである。

自己責任論者って、結局みんなを自分は何もできない無力で無能なダメな人何だって委縮させて、無力な自分を免罪したいだけなのではないのかニャ。
そんな生き方つまらないのでニャ。
人って、助け合って力を貸しあって、はじめて成長できるのではないかニャ。
自己責任論が日本をダメにしてると思うのニャ。

自分は何もできないから、足ひっかるだけなんて、委縮していまったらつまんないでニャ。
だったら、余計に大勢集まって、微力を強力な力に変えてしまえば良いじゃないのかニャ。
どんな大河も小さな一滴から始まって大勢集まって、あの姿になっているって知っているニャろ。

人の力だって同じじゃないのかニャ。
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