mixiユーザー(id:3687887)

2016年04月11日22:31

126 view

2031日目の前ページからのツヅキ・やれ打つな蝿(ハエ)が手をする足をする・・・

 2031日目の前ページからのツヅキ
 ↓↑
ーーーーー
 ・・・2016年、平成二十八年・・・この日本には「一揆」が起こる「条件」も「気配」も無いらしいが・・・アレから五年、キッと人びとは地震、大津波、原発事故で多くの持ち物と家族、友人の命を失っても、生き残った人びとは「衣食住」には不自由していないらしいし、「不満の怒り」もないらしい・・・?・・・「一茶」さん、あんたが唯単に「自虐的」に日常生活を「俳句の文字」に託していたとは思われないのだが・・・「やれ打つな蝿(ハエ)が手をする足をする」って・・・同音異字カンジ文字への転換へのメッセージじゃぁないのカナ?・・・だが、「一茶」は当時の情報は知っていた・・・
 ↓↑
 小林一茶
 宝暦十三年五月五日
 (1763年6月15日)
  〜
 文政十年十一月十九日
 (1828年1月5日)
 本名
 小林弥太郎
 別号
 圯橋・菊明・亜堂・雲外
 一茶坊・二六庵・俳諧寺
  信濃北部の
 北国街道
 柏原宿
 (長野県
  上水内郡()
  信濃町
  大字
  柏原)
 長野県北部
 上水内郡信濃町
 父
 弥五兵衛
 母
 くに
 の長男として誕生
 北国街道柏原宿
 にあった一茶の家は、
 農業を営む傍ら、
 公用荷物を運ぶ
 伝馬役・・・・・・
 を勤めていた
 天明七年(1787年)には
 田畑で
 十三石超の収穫を得る
 「中級」農家
 三歳の時に生母を失う
 八歳で継母を迎える
 継母に馴染めず、
 安永六年(1777年)
 十四歳
 江戸へ奉公
 二十五歳
 俳諧
 最初に属したのは
 葛飾派・・・・・葛飾?
 山口素堂の
 孫弟子
 渭浜(いひん)庵
 三世
 其日(きじつ)庵
 溝口素丸
 に師事
 同時に、同派の
 ニ六庵
 小林竹阿(ちくあ)、
 今日庵
 森田元夢
 らにも師事
  ↓
 寛政三年(1892年)
 二十九歳
 故郷に帰り、
 翌年
 寛政四年(1893)より
 三十六歳の年まで
 俳諧修行で
 近畿・四国・九州を歴遊
  ↓
 寛政十年(1899年)
 江戸に戻った一茶は、
 ニ六庵宗匠として
 葛飾派俳書に登載されるが、
 三年だけで、以降、
 葛飾派とは疎遠となり、
 これにかわって、
 当時江戸の
 三大家といわれた
 蔵前の
 札差(幕府から旗本・御家人に支給される米の仲介業とした者)
 夏目成美(せいび)・・・「夏目」?
 と親しくなる
 ↓
 享和元年(1801年)
 三十九歳
 帰省
 父を看病したが父は1ヶ月ほど後に死去
 以後
 遺産相続の件で
 継母と
 十二年間争う
 父の発病から死、
 初七日を迎えるまでの
 約一ヶ月を描いた
 『父の終焉日記』は、
 私小説の先駆け・・・・・・「私小説」
 文化五年(1808年)末
 遺産の半分を貰うことに成功
 取り分は
 田4〜6反、畑3反歩、山林3ヵ所、
 他に家屋敷半分、
 世帯道具一式
 財産規模は
 柏原では中の上
 文化五年以降
 柏原村の本百姓として登録
 六年からは
 弥太郎名義で年貢を納める
  ↓↑ 
 「いざいなん江戸は涼みもむつかしき」
 という句を残して
 文化九年(1812年)十一月半ば
 江戸を経ち永住すべき郷里
 柏原村に向かった
 文化十年(1813年)
 弟との間に取り交わした
 熟談書付の事にある家屋敷分譲の実行と
 文化四年(1807年)以前
 の収入と利息を払えという
 遺産争い
  ↓↑
 文化九年(1812年)
 五十歳で故郷の信州柏原に帰り、
 二年後
 二十八歳の妻
 「きく」を娶り、
 三男一女をもうけるが
 幼くして死亡
 「きく」も
 痛風がもとで
 三十七歳で死亡
 六十二歳で二番目の妻
 「田中 雪」を迎えるが
 半年で離婚
 六十四歳で結婚した三番目の妻
 「やを」との間に
 「やた」をもうける
 「やた」は一茶の死後に産まれ、
 一茶の血脈を後世に伝え、
 1873年に46歳で死亡
 一茶は
 脳卒中で58歳のときに半身不随
 63歳のときに言語症
 文政十年閏六月一日(1827年7月24日)
 柏原宿を襲う大火に遭い、
 母屋を失い、
 焼け残った土蔵で生活
 十一月十九日
 土蔵の中で
 六十四年半の生涯を閉じた
 法名は
 釈一茶不退位
 ↓↑
 俳号「一茶」の由来
 『寛政三年紀行』の巻頭で
 「西にうろたへ、東にさすらい住の狂人有。
  旦には上総に喰ひ、
  夕にハ武蔵にやどりて、
  しら波のよるべをしらず、
  たつ泡のきえやすき物から、
  名を一茶房といふ」
 と一茶自身が記録・・・「イッサ」は、インドの伝承では
             キリストの名前でもあったとか?
  ↓↑
 正岡子規は
 「俳人一茶」(1897)の
 「一茶の俳句を評す」の中で
 「俳句の実質に於ける一茶の特色は、
  主として
  滑稽、・・・・酷刑?
  諷刺、・・・・附得詞?
  慈愛・・・・・字蛙意?
  の三点にあり」
 と述べている・・・らしい・・・
  ↓↑
 正岡子規
 1867年10月14日(慶応三年九月十七日)
  〜
 1902年(明治三十五年) 九月十九日
 俳人、歌人、国語学研究家
 名は常規(つねのり)
 幼名は処之助 (ところのすけ)
 後に升(のぼる)
  ↓↑
 ・・・愛媛松山中、共立学校で同級の「秋山真之」の親友だった「正岡子規」が自分自身の体験とドウ妄想しても構わないけれどネッ・・・
  ↓↑
 幼少期、「継子一茶」、義母との間の
 精神的軋轢の発想が
 自虐的な・・・・・
 句風となり
 風土と共に生きる
 百姓的な視点と
 平易かつ素朴な語の運びに基づく句作
 作風は
 与謝蕪村の
 天明調に対して
 化政調と呼ばれる・・・
  ↓↑
 一茶の代表句
 雪とけて村いっぱいの子どもかな
 大根(だいこ)引き大根で道を教へけり
 めでたさも中位(ちゆうくらゐ)なりおらが春
 やせ蛙(がへる)まけるな一茶これにあり
 悠然(いうぜん)として山を見る蛙(かへる)かな
 雀の子そこのけそこのけお馬が通る
 蟻(あり)の道(みち)雲の峰よりつづきけん
 やれ打つな蝿(はへ)が手をすり足をする
 名月をとってくれろと泣く子かな
 これがまあ終(つひ)の栖(すみか)か雪五尺
 うまさうな雪がふうはりふうはりと
 ともかくもあなたまかせの年の暮(くれ)
 我ときて遊べや親のない雀
  ↓↑
 ・・・コレラを各自が「文字転換」してヨンだら、ドウなるか・・・
  ↓↑
 一茶の作った句数
 一茶のつくった句
 約22,000句
 一茶の句は類似句や異形句が多い
 「我と来て遊べや親のない雀」にも、
 「我と来て遊ぶや親のない雀」と
 「我と来て遊ぶ親のない雀」の
 類似句がある・・・らしい・・・
  ↓↑
 平成に発見された一茶の句
 ちるひとつ咲のも一つ帰り花(2013年11月)
 けふもけふも霞はなしの榎かな(2011年4月)
 一株の芒をたのむ庵哉(2010年5月)
 稲妻のおつるところや五十貌(2010年5月)
 猫の子が手でおとす也耳の雪(2010年2月)
 菜の虫ハ化して飛けり朝の月(2009年4月)
 羽根生へてな虫ハとぶぞ引がへる(2009年4月)
  ↓↑
 代表句集等
 『旅拾遺』『さらば笠』『三韓人』
 などがあるが自身の俳書はない
 著名な『一茶発句集』『おらが春』は没後に刊行されたもの
 「寛政三年紀行」「父の終焉日記」「我春集」「株番」「志多良」
 もいずれも遺稿
 「寛政句帖」「享和句帖」「文化句帖」
 「七番日記」「八番日記」「文政句帳」
 など克明な記録は、
 出版を意図して書かれたものではなく、
 一茶のプライバシーまでも公にしている・・・
  ↓↑
 一茶発句集
 たびしうゐ(旅捨遺)
 さらば笠
 三韓人
 おらが春
 寛政三年紀行
 父の終焉日記
 株番
 我春集
 志多良
 寛政句帖
 享和句帖
 文化句帖
 七番日記
 八番日記
 文政句帖
 浅黄空
 俳諧寺抄録
ーーーーー
 ・・・「人間は同じ石につまずく」デスか・・・ボクは何度も同じことを繰り返しているけれど・・・文政十一年四月に娘の「やた(46歳で明治六年没)が生まれ、彼女が父の遺作出版に関わった・・・?・・・
1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2016年04月>
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930