武田勝頼が天目山麓の田野で自刃した天正10(1582)年3月11日の翌12日付の真田昌幸宛ての北条氏邦の文書があり、すでに真田昌幸が武田氏滅亡の前から北条氏に属す動きをしていたことはドラマと異なる歴史的事実である。早々に北条方に乗り換えようとしていたことは確実だったようだ
ドラマでは織田につこうとしているように書き替えられているが
幾ら武田を鉄砲隊で破り天目山で破った織田信長とはいえ、現実に関東のほとんどを制覇していた北条氏についた方が得だと新聞もTVなどのマスメディアもない時代に真田家が考えるのは自然の流れだった気がする
しかし武田氏滅亡後の論功行賞の結果、真田昌幸の所領のある信濃の小県郡や上野は織田信長の重臣滝川一益に与えられることになり、昌幸は一益配下に組みこまれていく。
武田軍に勝利した信長は安土に城を建設、そして本格的に天下統一を目指していく。ここもドラマとはタイムラグがある。
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