昨夜は、職場の忘年会のため日記を休んでしまいました。
昨年の12月5日に緩和ケアへの転科を決めた同居人は、
ベッドの空き待ちのために痛みのコントロールをしながらの闘病生活が続けていました。
途中、長男と次男が来てくれましたし、
次男は婚約者も連れて来たので、同居人は次男の事を頼むと言っていました。
同居人の幼なじみも東京から来てくれて、とても喜んでいました。
何日だったか記憶が確かではないのですが、
寝ていた同居人が突然目を覚まして、
童女のような声で牛乳が飲みたいと言い出しました。
僕は慌てて冷蔵庫の牛乳を取り出し飲ませました。
飲んでからは落ち着いたようで、有り難うと言っていましたし、
僕の事を気遣って、早く帰るように言ってくれました。
緩和ケアの転院を済生会宇都宮病院が受け入れてくれそうだとの話があり、
15日に済生会に行きました。
そして、とんとん拍子に話が進んで、翌日の16日に転院出来る事になりました。
僕としては、狭苦しく窓からの景色も良くない婦人科の病室から、
少しでも眺めの良い病室に移って最期を迎えさせてやりたいと思っていました。
自治医大周辺の景色は、同居人には馴染みのないものでしたが、
済生会からの眺めは、息子達の通った中学も近く、
彼女が働いていたデパートも見えます。
そこで、新年を迎えて旅立たせたいと思っていました。
済生会から自治医大に回って転院出来る事を話したら、
同居人は必ずしも喜んでいませんでした。
やはりお世話になった自治医大の研究に貢献したいとの気持ちだったようです。
しかし、僕が病院に通う事などを考慮して納得はしてくれていました。
16日の午後1時に自治医大の救急車で済生会に移る手はずが整い、
僕は朝から同居人の病室に行っていました。
朝行った時には、調子はどうかとの僕の問いに、まぁまぁと答えていました。
11時頃荷物をまとめたところで、眠ってしまいました。
呼吸も荒くなった感じで、様子を見に来てくれた看護師は、
移動は難しいのではないかと言い、主治医に連絡を取ってくれました。
駆けつけた主治医が大きな声で呼びかけても反応しなくなりました。
そして危篤状態ですから、息子さんなどを呼んだ方が良いと言いました。
結局、済生会への転院は断念せざるを得なくなりました。
僕は至急息子達や義姉に連絡を取り、みんなに病院に来てもらいました。
息子達が間に合わないと大変だと思い、僕は必死で呼びかけました。
同居人は話す事はありませんでしたが、僕の声に反応してくれているように感じました。
息子達も夕方には集まり、義姉や僕の弟も来てくれ、
それぞれが声を掛けてくれましたが、彼女の意識は戻りませんでした。
主治医からは、今夜が山だから泊まってくれと言われ、
僕と息子たちは病院に泊まり込みました。
僕は、同居人の意識が戻る事を信じていたのですが、
結局戻らぬまま、18日の午前5時22分、彼女は旅立ってしまいました。
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