昨年の12月2日、同居人は2回目の抗癌剤の効果を確かめるためのCT撮影をしました。
この日病院に行っていた僕だけ、主治医から呼び出されました。
CT検査の結果、癌の進行が早くこれ以上の抗癌剤治療は困難との事で、
緩和ケアに行く事を勧められました。
本人には12月3日に直接話すとの事でした。
病室に戻って、同居人の顔を見ているのが、とても辛かったのですが、
その場では当たり障りのない事を言って帰宅しました。
12月3日、僕も一緒に主治医からの話を聞きました。
同居人は若干驚いた表情はしましたが、割と冷静な感じがしました。
そして、主治医には後どの位生きていられるのか訊きましたが、
主治医は分からないと言って答えてくれませんでした。
医師が帰った後、同居人と話しました。
彼女は自分の死後の僕と長男の事を心配してくれました。
僕は彼女と話していて、涙が止まりませんでした。
12月4日に僕が病院に行った時には、自分で緩和ケアへの転科を決めていました。
彼女は思い切りが早いので、心中はともかく表情は割とサバサバしていました。
そして、彼女の死後、病気の研究のために
病理解剖をしてもらうように申し込んだとも言っていました。
これには主治医も「強い人ですね。」と驚いていました。
12月5日に、緩和ケアの医師から話があると言うので、午後病院に行きました。
その担当医を病室で待っている時に、僕の携帯が鳴りました。
元の上司から、
僕に来て欲しいと言っている所があるのだけど、どうだろうかと再就職の話でした。
前々からそのような話はあったのですが、
その時には同居人の病状を話せなかったので、曖昧にしていました。
この時は、彼女の病状を話し、とても受けられる状況ではないと断りました。
それを脇で聞いていた彼女は、「ごめんね」を繰り返していました。
僕は、もう仕事で苦労はしたくないから、
君が元気だったとしても断ったろうと言いました。
その後、緩和ケアの医師が来て、当人の意向や状況を確認した上で、
自治医大の緩和ケア病床も満床なので、待って欲しいとの事でした。
そして自宅から距離があるから、
済生会病院の方が良いのではないかとの話がありました。
僕も済生会宇都宮病院の方が近いし、彼女の職場にも近く、
色々見慣れた風景も見られるのではないかと思いました。
同居人は僕の事を考えて、同意してくれたので、
自治医大と済生会のベッドの空き具合を見ながら、
当面二股で考えようとの事になりました。
その頃からクリスマスに向けて、
自治医大の屋上に小さなイルミネーションが飾られました。
入院しているお子さん向けなのだと思いますが、
同居人の病室からは見えませんでした。
廊下に出れば見られるので、彼女に見せてやりたかったのですが、
結局病室から出る事が出来ず、見ないまま逝ってしまいました。
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