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2015年09月27日21:37

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邑久町に 調べに行った 石井十次 佐竹徳

ネギの出荷不能分がじゃんじゃん出るので、じゃんじゃん刻んで
せっせと食べてるが、生をご飯に混ぜてマヨネーズで食べると
とても体が暖まる。
で、今日もぐうぐう昼寝した後、迷ったけど、瀬戸内市の
図書館と、石井十次の孤児院発祥の地を見学することにした。
図書館は、「オリーブの画家」佐竹徳の資料を見るため。
石井十次も、佐竹徳も、遠縁の変人画家の関係で調べている。
個性的な3人。

瀬戸内市(旧邑久町)の図書館は、新築中なのだが、
公民館2階の古い図書館は、まことに狭い。
そこで、うちの近くの知り合いの女性議員の娘さんに会った。
しかし、佐竹徳の資料は1冊しかなく、がっかりした。
こんど、彼が、老人ホームから通ったというアトリエを見に行こう。

佐竹徳氏は、自分でオリーブ園を掃除し、アトリエで客にコーヒーを淹れ、
飽きもせず、オリーブや松を描いていたお爺さんである。
30歳で結婚し、2児をもうけ、60代から、この地で大半を過ごした。
彼も、妻も100歳前後まで生きた。
性格は 地味で、くそマジメで、若くして皇室に買い上げられ、
一級展覧会でも、無審査で通る資格を持っていたけれど、
それを鼻にかけることは 全く無かったといってよい。
関東大震災の時に、賀川豊彦と共にボランティアした人である。
妻とも、そこで知り合った。

おそらく、奥さんは、孫達と過ごしていたのではないのかな?
佐竹の苗字の女性の名が 画集に載っていた。

石井十次が最初に世話した子供がいた大師堂は、
土間の2辺に、板を腰掛け風に並べた小さな家。
丘の麓から3段目くらいの場所にあり、もう1段下がると
街道になる。

十次は 当時 ノイローゼ状態で、代診の名目で
実は 彼自身が静養中だった。(体調も悪かった)

邑久町の図書館から、夢二の記念館で海に出る道に曲がり、
つきあたりを、左折して、街道にぶつかる所に看板がある。
上阿知といって、岡山市の東南の海に近い場所だが、
山で海とは隔てられている。(バス停は、上阿知東)

記帳してきた。蚊が多くて困った。
隣の診療所の跡地は、りっぱな石碑があるが、建物は無い。
さるすべりの剪定枝が沢山燃やすべく積んであったので、
1本拾ってきた。
近隣の家の囲いから、白萩が満開にしだれているのが美しい。
帰り道、満月が ウロコ雲越しに輝き これも美しかった。
さらさらと快適な温度、湿度の秋の宵。
もっとも、昼間は扇風機を回す夏の日差し。

その診療所を作った医師の開業していた神崎にある
大きな寺の一画の跡地も ついでに見に行った。

さっき、ゴッホの最後を世話したガシェ医師の息子氏の家に
訪問した日本人達のことを調べた女性のリポートをネットで読んだ。
(尾本圭子氏)御茶ノ水大学

ガシェ氏は、ゴッホの浮世絵好きを継承していて、
世界で一番早くからゴッホが好きと言ってもいい、日本人達が
早くから、ゴッホ終焉の地に沢山やってくるのを喜んで、
芳名録を3冊も作った。

当時、パリでは、ゴッホの作品をまだ収集しておらず、
一番、沢山、収集していたのは、ガシェ氏の家だった。




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