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2015年09月14日22:53

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中国に似てくる日本。主権在民考えない発言。

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『自民党の「憲法改正草案」と「中華人民共和国憲法」。
両者はよく似ている。
どちらも権力の暴走から国民を守るためではなく、権力によって国民を動員するためのものである点で基本的性格を共にしている』

4日の道新「各自核論」より
中国研究所理事長 杉山文彦さん
「中国に似てくる日本 主権在民考えない発言」

日本人は中国嫌いだと世上言われている。
事実、内閣府の世論調査では中国に「親しみを感じない」という回答がここ数年7、8割を占める。

しかし私には最近、日本は日に日に中国に似てくるように思える。
自民党若手議員の勉強会で
「沖縄の二つの新聞はつぶさにゃいかん」と気勢が上がる。
「法的安定性は関係ない」との発言が首相補佐官の口から飛び出す。

こういった発言は、共産党が全てを指導し、自由も平等も、また法的公正も、みな共産党の指導(都合)に沿う範囲でのみ認められるという中国の体制の下でこそふさわしい。
実際、中国では政府に批判的な新聞の編集者が辞めされられたり、社会活動家や弁護士が法的根拠も不明確なままに拘束されたりする。

日本はどうか。憲法は主権在民、基本的人権、表現の自由をうたっているから、前述の発言は国民としての基礎的教養を欠き、ルールを無視していることになる。

ところが、くだんの言は、選挙で選ばれた議員やその周囲に集う者の言葉である。
こうなると国民のかなりの部分が、主権在民や人権尊重を理解せずに物事を判断し、憲法に基づくルールとは違った心情で生活していることになる。

どうしてこんなことになってしまったのか。長らく教職にあたった私としてはやはり教育の問題を考えざるを得ない。
子供が自我を形成し大人になってゆくことは、それまでなんとなく従っていた周囲の状況を自分の目でとらえ直して自分なりの社会のイメージを形成し、それに働きかけるようになることである。

この過程で主権在民や人権尊重、
もっと具体的に言えば、多数決原則の中でなぜ少数意見が尊重されなければならないのか、
自由でも平等でもない現実の中で自由や平等を言う意味はいずこにあるのかといったことを、
若者自身の身の施し方につながるような具体性をもって考えることが、近代社会の市民として生きる上で重要となる。

これなくしては、強者は自己中心的、攻撃的となり、弱者は社会の変化に小突き回されることになる。

しかし、今の日本で若者が成長してゆく過程でこれらのことを十分に考える機会が与えられているか甚だ疑問である。
主権在民も基本的人権も単なる知識にとどまっている。私自身、教員としての過去を振り返って、この点に十分自覚的であったとは、とても言えない。

若者がブラック企業の下で忍従を強いられる一方で、社会の指導層に属する者が本心を吐露すると往々にして「失言取り消し」になってしまうのは、自我の鍛錬が不十分であることの証左であろう。
戦後70年、民主主義といわれながら実にうかつなことであった。教育の在り方を急ぎ大きく変えねばなるまい。

いや、人権だの自我だのと面倒なことを言わずとも「美しい日本」の伝統によれば良いと考える人も多いだろう。しかし、それではうまくいかぬことは、第2次対戦の悲劇が示している。

それでもという「美しい日本」派の人は、ぜひとも自民党の「憲法改正草案」と「中華人民共和国憲法」を熟読していただきたい。
両者はよく似ている。
どちらも権力の暴走から国民を守るためではなく、権力によって国民を動員するためのものである点で基本的性格を共にしているからだ。

■安保法案、16日にも委員会採決=安倍首相、今国会成立へ決意
(時事通信社 - 09月14日 19:01)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=3615758
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