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2015年09月05日19:32

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岡山市中区:廃線・三蟠軽便鉄道!。

本日、
2015年9月5日。

さて、相棒を車検に預けてからのお話。
なんかダラダラ書いてしまって(汗)
長くなるので、分けました。

さて、
ここからが掲題の日記。

岡山市中区:廃線・三蟠軽便鉄道!。

日記をどうぞ(*゚▽゚)ノ

少し前のお話になります、
ご了承ください。

2015年8月22日。

今回の日記は鉄道のこと。
いま廃線になってしまったもの。
ご興味がある方は読んでみてください。

わたしはいま減量で、
デトックス中心のダイエットです。

お陰さまで、
体質改善もしながら、
トータル15キロ落としました。

なんとかかんとか、
落ちたり落ちなかったり、
もがいています。

これからは身体のメンテナンスを
月一行くことにしました。

美容器があるから、
ホームエステは怠りませぬ。
あるものはちゃんと使います(≧∇≦)

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本来なら、三蟠軽便鉄道。
車で行けばいいくらいな距離ですが、
ダイエット兼ねてチャリで行きました。

横着はFATの素。
わたしは多分太る体質なんです。
チャリで地元のニュースになった
三蟠軽便鉄道に行ってきました。

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通勤途中の朝の涼しい時間帯に
何人かが集まって壁面に絵を
描いているのをわたしは見ていて。
なんだろう?
って思っていたんですよね。

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すると、
ローカルニュースで
旧駅名の看板の除幕式の報道。

翌日の山陽新聞にも出ています。

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これだったんだ!
見慣れた風景がテレビに映る新鮮さ。

行けれる場所だから行ってみよう!
ということで行ってきました(≧∇≦)

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通勤途中に
レールと、トロッコ復元現場があります。

いつもはなんだと思いながら、通過。
興味があるだけまだマシか?

フォト

三蟠鉄道をちょっと説明。

三蟠鉄道(さんばんてつどう)は、
かつて岡山県岡山市中区江並にあった
三蟠駅から
同市中区門田屋敷にあった国清寺駅
および同市中区桜橋にあった桜橋駅を
結んでいた軽便鉄道である。

この鉄道の目的地であった三蟠港は、
1692年(元禄5年)に実施された
沖新田の干拓事業に伴い建設された。
沖新田が一番から九番までの
9つの工区に分けて干拓されたことに
由来して、
明治に入って改称されるまでは
三番港という名前であった。
岡山市内の京橋港に対する外港として、
交通の要衝として長らく繁栄していた。
山陽鉄道は1903年(明治36年)
3月岡山-高松間に連絡航路を開設し、
岡山京橋の船着き場から
旭川 (岡山県)を船で下り、
三蟠港沖の連絡船玉藻丸へ
乗り継いで高松へ向かっていた。
しかし旭川の川床は年々浅くなり、
特注した浅喫水船旭丸でも
満潮時か増水時を除いて
安全運航には支障がでるようになり、
欠航の日は岡山より100台を
超える人力車が
下流の臨時船着き場へむかっていたという。
しかし、
1910年(明治43年)の宇野港開港と
国鉄宇野線の開業により廃止された。
三蟠港は対四国連絡の玄関口としての機能を
事実上失って地位が低下し始めたことから、
その対策として三蟠鉄道の建設が行われた。

その開業が岡山電気軌道との
連絡駅となる国清寺からではなく、
三蟠 - 桜橋からとなったのはこのためであり、
桜橋までの建設となったのも、
三蟠から同地に所在する岡山ガスへの
石炭の輸送が
大きな目的であったためであった。

線路は沖新田の水田の中を
直線主体の平坦なルートで敷設され、
途中には大きな村落は存在しなかったが、
上述の通り桜橋には岡山ガスが所在し、
貨物側線も敷設されていた。

1927年(昭和2年)には
当時進出してきた乗合自動車との
対抗上費用の節減と運転時間短縮、
運転回数の増加を狙い、
日本車輌製造本店で初の気動車として
フジを新造した。
さらに翌年には増備車としてフジを
新造するなど、
乗客増に努力したが、
肝心の三蟠港が小型内燃機関を
搭載した船舶の普及により、
水深の浅い旭川の遡航も容易となったため
京橋港の外港としての必要性が
急速に低下したことや
バスの台頭などから営業成績が悪化した。

兼業として1929年(昭和4年)4月に
三蟠駅構内の空き地に水族館を開館したり、
7月に沿線の宮道海水浴場に
食料販売店を開店するなど
旅客誘致策をとっていたが、
岡山市の都市計画道路
(旭東線:現在の岡山県道45号
  岡山玉野線の一部)の建設に伴い
線路用地の提供が求められたこともあって、
経営の苦しかった会社は
路盤の買い上げに応諾。
1931年(昭和6年)に
乗客への予告等なく突然休止され、
間もなく廃止された。
運行期間十数年と短命であった。

なお、廃止前年に13号機が
日本硫黄耶麻軌道部へ譲渡され
11号機となり、
1941年にC911に改番された後、
1953年に廃車になったが、
協三工業に運ばれ一部部品がDC121C下廻りに
転用されている
(同機はその後猪苗代緑の村に保存されている)。

また、新造間もない2両の気動車は廃止後
1933年(昭和8年)になって
井笠鉄道へ譲渡され、
ジ10・11となっている。

現在も一部の橋台が遺構として残っている。

三蟠鉄道のウキぺディアから引用。

こんなのがあったのね〜( ̄▽ ̄)
全然知らんわ。
祖母に聞いてもわからない。

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レールと、トロッコ復元現場の近くに
説明書きが。

いつもは通過ですから、
足を止めることもなく。

本日はじっくり!
屋外にあるので、雨風で滲んでいます。

見えづらいとは思いますが、
わかる範囲で書きますね。

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三蟠軽便鉄道開通100周年記念大会。

我が母校の文化祭になるのか。

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三蟠軽便鉄道開通100周年記念?

記念歌、応援歌?

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切符ちゃんとあったんですね。
これ戦前ですよ。
正直こんなのよく保存していましたね。
学芸員さん、お手柄ですわね。

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平成27年2月14日レール敷設作業。

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平成27年3月7日トロッコ設置。

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トロッコ設置完了。

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開通当時の倉安川鉄橋 
船と交差する蒸気機関車。

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石原健三氏模写版画。

石原 健三
(いしはら けんぞう、1864年2月20日
(文久4年1月13日) - 1936年9月4日)は、
日本の内務官僚、裁判官、政治家。
枢密顧問官、貴族院議員。

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昭和48年
撤去前のアパット跡。

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ここに線路とトロッコが。

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幟には、我が母校の名前が。
母と対立したわたしは、
母の母校に進学せず、この大学に。

母の母校の校長先生、頭が高くて、
なんか嫌だったんですもの。

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線路。

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トロッコ。
石炭とか運搬していたんでしょうね。
意外に大きいですね。

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滑車。

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好奇心があるわたしは、
絶対に覗いて見てしまいます。

乗ったら怒られそうだね…(汗)

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三蟠鉄道だから、
三本線があるんかな?

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線路とトロッコ。
全体はこんな感じ。

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枕木を歩いたんですが、結構幅があり。
足が短いわたしは、正直しんどい。

産業道路の脇にある復旧現場で撮影。
通行の車が見て通ります。

しかも、信号機があるので。
きっとなにしているんだろう?
こんなところでしょう?

したいことをする、
動物的でいいんだよ。

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春にいつも訪れる、
わたしの桜の穴場の道を通り過ぎ。

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三蟠鉄道を描いた壁面に。

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わたしは絵心がないので。

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感動です。

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三蟠鉄道研究会。
制作 岡山県立岡山東商業高校。
協力 岡山ガス 株式会社。 

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全体はこちら。
5mはあります。
力作ですね。

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ローカルニュースで
旧駅名の看板の除幕式の報道の現場。

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右から読むのは読みにくい(汗)

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漢字もなんか難しいし。

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幟に書いてあるイベントは後日の日記で。

三蟠鉄道 - Wikipedia
https://bit.ly/2XwUDh0

ここまで
お付き合いくださった
皆さま、
ありがとうございました(≧∇≦)
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