mixiユーザー(id:6697069)

2015年08月20日10:33

413 view

岩村城

8月19日からが本格的な夏休み…とはいえ、西も南も雨の予報だったので、東へと行くことに。
東海道線と中央線、明智鉄道(旧国鉄だった単線のレールバス…なのに急行があったのが驚き)岐阜県恵那市岩村町の岩村城址まで行ってきました。

岩村駅から、城下町由来の商店街を経由しててくてくと…幾つかの江戸時代からの旧家のほかに、全体的に昭和初期の木造建築物で景観を統一し、電柱も撤去していました。
観光客向けの店よりも、地元民向け商店の方が多いというのがなんとも生活感にあふれていました。

左が、山の麓の藩主邸の太鼓櫓。
平成2年に復元されたもので、藩政時代に太鼓で時刻を鳴らしていたものです。
藩主邸後には歴史資料館があって、周囲の発掘品や岩村藩縁の品、近隣著名人の展示がありました(珍しく、全面撮影禁止…日本初の英和辞書なんてのもありました)。

岩村城は日本三大山城(なんと竹田城は入っていません)の一つで、やはり建物等は残っていませんが、城郭の縄張りは明治初期に廃城されてからそのままにされており、登山道もかつての登城路とほぼ同じでした。
…ただ、時代的にも目的としても違うのに「日本のマチュピチュ」というキャッチフレーズはいかがなものかと。
レンガ造りだと「ラピュタ」・石造りだと「マチュピチュ」…というのが世間で通りがいいんでしょうけれど、僕としてはなんともはやな印象を受けてしまうのはどうしようもないです。

中は中腹にある、菱櫓。
石垣も建物も菱形になっていたから…というのですが、さて裏側はどうなっているのかしら(森林になっていて伺えませんでした)。

右が、おそらく「マチュピチュ」の論拠になっているのだろう、六段壁。
登城路の正面なので、斜面の全面崩落を避けるために急斜面に石垣で補強をしたのでこんな景観になった模様。雰囲気はいいんですけどね…。

本丸の標高が700mくらいで、前回の飯森山城の二倍の標高なんですが、飯森山よりも登城ルートはなだらかなのでそんなに疲れはしませんでした。
聞こえるセミの声も、ミンミンゼミよりもツクツクホウシの方が多いというのも標高差を感じますね。
本丸の裏の出丸がそのまま駐車場になっていて、自動車でラクに乗り入れられるので、平日の昼間なのにけっこう観光客はいてはりました。

別名を「霧ケ城」というだけあって(城内の井戸に家伝の蛇骨を投げ入れることによって霧を発生させることができるとか…藩の記録にその骨を虫干しした記述があるそうな)、コケの生育には適しているようで、どこにでもあるヤマゴケやミズゴケ、ウメノキゴケも多かったのですが、日本最大の苔・コウヤノマンネングサの群落があちこちにあったので少し採取してきました…上手くいくかどうかは不明ですがとりあえずコケテラリウムに植え付けしておきます。
5 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する