mixiユーザー(id:12851739)

2015年08月15日21:56

379 view

70年前のこの日

この日の意味

70年前のこの日、何があったんだろう。
1945年の長い一年を考えてみる。
この年、こんなことがあった。

1月25日 最高戦争指導会議、決戦非常措置要綱を決定。 
2月4日 ルーズベルト、チャーチル、スターリン、ヤルタ会談。ソ連の対日参戦密約。

2月4日のヤルタ会談
この後、戦局は明らかになっていく。

3月6日 国民勤労動員令公布。 
3月9日 B29が東京を夜間大空襲。 
3月14日 大阪大空襲。 
3月17日 硫黄島の日本軍全滅。(戦死 23,000人) 
4月1日 米軍が沖縄本島に上陸。 
4月7日 鈴木貫太郎(海軍大将)内閣成立。 
4月7日 呉から沖縄に出撃の戦艦大和が九州南方で撃沈される。 
4月12日 ルーズベルト米大統領死去。副大統領トルーマンが昇格。 
4月16日 ソ連軍がベルリン攻撃開始(〜5月2日)。 

東京、大阪が空襲を受ける。
そして、ドイツが無条件降伏

5月7日 ドイツが連合国に無条件降伏。 
5月14日 最高戦争指導会議で、対ソ交渉方針決定(終戦工作始まる)。 
5月30日 ヒトラー自殺。 

私は、この日に注目したい。

6月8日 天皇臨席の最高戦争指導会議、本土決戦方針採択。

日本は、本土決戦をスローガンとすることになる。
少女たちが竹槍を持ち、
鬼畜米兵を殺す訓練を受ける。そういう時代。
皆、一丸となって、本当に信じていたからこそ、
藁人形を突いていたのだろう。

そして、ポツダム宣言

7月17日 トルーマン、チャーチル、スターリンがポツダム会談。
7月26日 ポツダム宣言発表。 

しかし、日本はこの2日後、
黙殺を表明

7月28日 鈴木首相、ポツダム宣言黙殺を表明。

そして、
 
8月6日 B29が広島に原子爆弾投下(死者約15万人)。 
8月9日 長崎に原子爆弾投下(死者約7万人)。 

さらに、
ソ連が参戦し、太平洋戦争は、第二次世界大戦へと変わる。

8月9日 ソ連が、日本のポツダム宣言拒否を理由に、対日宣戦布告。 

その翌日。

8月10日 政府が中立国スイス、スウェーデンを通じて米英中ソにポツダム宣言受諾を申し入れ。

日本は即座に反応した。
 
8月13日 御前会議・閣議が連合国の回答をめぐり紛糾。 
8月14日 天皇裁決で、ポツダム宣言の無条件受諾を決定。 

しかし、この間、
終戦に反対してのクーデターが起こる。そして、49年前の今日。

8月15日 天皇の「終戦の詔書」録音放送。日本が無条件降伏 鈴木内閣総辞職。 

もう、3月の時点で、
日本の敗戦は分かっていた。
5月にドイツが降伏した時点でも、分かっていた。
東京空襲の時に、なぜ、降伏できなかったか。

何よりも、なぜ、ポツダム宣言の後、
せめて1週間で降伏していれば、
広島、長崎は原爆に焼かれることは無かった。

2月の時点で、概ね日本への原爆投下のシナリオは描かれていただろう。
そして、5月、ドイツがあっさり降伏したことによって、それはより、はっきりとした計画になる。
彼らは、ポツダム宣言を日本が無条件に受け入れるなんて、思っていない。
何日かかるか。それを計算し、日本が降伏する前に、最も効果的な時期を狙って、原爆を投下した。
そして、ソビエトがどう、参戦するかも、シナリオが組まれていた。

それは事実だろう。

だが、
日本にも、チョイスはあった。
というよりも、回避する鍵は日本が握っていた。

ポツダム宣言の後、
1週間で受諾すれば良かったのだ。

ポツダム宣言を黙殺し、
国民は黙々と本土決戦をスローガンに、
竹槍訓練をしていたのだ。
それが日本であり、私たちが忘れてはならないことだ。

もし、原爆投下までの流れが、
仕組まれたことで、日本には不可抗力だとすると、
落とした者だけが悪いことになる。
だが、本当に悪いのは、戦争、それ自体だ。
日本にも、回避できるチャンスも、方法もあった。
そのチャンスを捨ててしまうという、あやまちを犯した。

もう、二度と、
そんなあやまちは繰り替えさない。


4 3

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する