他者の善意と理性、理解を前提にするなら、
犯罪を防ぐ、つまり防犯、と言う論理は無用で不要になるのだが、
罪の大小はともかく、犯罪はおこるもの、と前提で考えねば安全は守られないし、
安心も得られない、これは防犯、と言う観点では妥当な話だと思う、
性犯罪を助長したり推奨するつもりはないのだが、
わかりやすく表現するために、
女児を誘拐しようとしている犯罪者の気持ちになって考えてみよう、
とあるショッピングモールで女児が両親と一緒に買い物をしているとしよう、
誘拐しようとする人物の論理で言えば、
誘拐を決行したとすれば、女児の腕力や体力に変化はなくとも、
両親の存在は誘拐の成功率が決して高くはない、と確信させることができる、
さらにショッピングモールであれば警備員も常駐しているし、
防犯のカメラも撮影しているので、
犯行の一部始終が録画されている、と見るべきで、
誘拐の成功率が低く、検挙され裁かれる危険性が高い、と見られる、
その状況下で誘拐を決行するのは犯罪者心理で言えば、
おおよそ、犯行には至らない、と言える、
つまり女児にとっては身の安全が確保されている、と言える、
では両親が居なくなり、ショッピングモール内で女児一人でお買い物をしている、としよう、
両親が居なくなることで、誘拐を決行した場合、
即時に女児を守ろうとする両親の存在を欠く事は、
犯罪者の心理で言えば、決行する誘惑は大きくなる、と言える、
しかしショッピングモール内には変わりがないので、
警備員は常駐し、防犯カメラも撮影を続けている、
つまり誘拐、と言う犯行が仮に成功したとしても、
防犯カメラの映像や、犯行の目撃者からの通報で警備員が駆け付ける可能性が高く、
女児の身柄を拘束する事が、仮にできたとしても、
モールから連れ出すことは難しく、
検挙され、裁かれる危険性は確固として存在し続ける、
両親が居る時より危険性は高まるが、
ある程度の身の安全を保持する機構や人物は居る、と言える、
では最後にショッピングモールから出て、
暗い夜道を女児一人で歩いている、としよう、
誘拐を決行した場合、即座に抵抗する両親の存在もなく、
モールに常駐する警備員も居ない、
さらに犯行を記録し、検挙につなげるための映像を撮影もしていない、
この状況下を作り出す事は、犯罪者がすぐ身近に居る、と仮定した場合、
誘拐事件が発生する危険性は、
非常に高く、それが成功する可能性も高まる、
有態な表現で言えば、犯罪者を誘惑する要素を多くすればするほど、
犯行に至る危険性は高まり、安全性は低くなる、
ウチのこの例えが適切かどうかわからないが、
家のカギをかけずに外出すれば、
いつか、誰かが玄関を開けようとすれば、
その時点で犯罪に遭う機会を作ってしまうことになる、
ウチのこの例えは、安保法案に反対する論に、
抑止する手段をとれば、戦争が近付いてくる、と言う主張があることが、
理解できないし、現実に則していない、としか思えない、
近隣諸国の理性に無制限の耐久性を求めるのは、
どれほど誘惑しても身じろぎ一つしない、鉄壁の理性を求めるようなもので、
社会的に口のきき方を知らない人物が、
周りの人たちに無限の忍耐を要求するのが、
社会的に妥当で賢明な対応だと考えるだろうか?
国際的に日本が近隣諸国に無防備と言う誘惑をして、
諸国にその誘惑に耐えるだけの忍耐力を求め続けるのは、
日本の国際的な立場として、妥当性を主張できるのだろうか?
ウチは平和を望むのと、準備や用意をしないのとは別次元の論だと思っている、
他者の理性を望むことなく、
自分も理性をもつと共に、他社(他国)に対しても、
理性的な対応をせざるを得ない姿勢を作り出すことが、
より現実に則した平和と秩序を維持する方向性だと思えてならないのですよ。
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