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2015年06月21日01:51

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6月21日の日記

今日の出来事:1582年−本能寺の変が起こり、織田信長が自害、1669年−シャクシャインの戦い:アイヌ民族が一斉蜂起、1867年−村松七士事件、1868年−北関東戊辰戦争:大田原の戦い、1868年−北越戊辰戦争:小千谷談判、1876年−横須賀造船所で日本初の軍艦「清輝」が竣工、1901年−星亨暗殺、1942年−第二次世界大戦:ドイツ軍が北アフリカのトブルクを占領、2014年−富岡製糸場と絹産業遺産群が世界遺産に登録

今日は、本能寺の変です。織田信長の家臣・明智光秀が謀反を起こし、京都・本能寺に宿泊していた主君・信長と後継者の信忠を襲い、自刃させた事件です。明智光秀は「武田征伐」から帰還した後、安土城で武田氏との戦いで長年労のあった徳川家康の接待役を務めました。しかし、明智光秀は接待役を途中解任されて居城・坂本城に帰されました。そして、羽柴秀吉援護の出陣を命ぜられました。丹波亀山城に移って、出陣の準備を進めました。愛宕権現に参籠し「時は今 天が下知る 五月哉」の発句で知られる連歌の会を催しました。この句が、明智光秀の謀反の決意を示すものと言われています。明智光秀は重臣・斉藤利三らに命じ、「本能寺にお泊りになられる御公儀様(信長)に中国遠征における閲兵を受けるため」と称して老ノ坂を下って、左の洛中に全軍を3手に分けて進軍をさせました。桂川手前で1万の軍勢を残し、斉藤利三勢3000を渡河させて洛中に向けました。一方、織田信長は羽柴秀吉の援軍に自ら出陣するため、小姓を中心とする僅かの供回りを連れて安土城を発ちました。京都の本能寺に入り、ここで軍勢の集結を待ちました。信長の嫡男・織田信忠は妙覚寺に入りました。信長は本能寺で茶会を開きました。明智光秀は1万3000人の手勢を率いて丹波亀山城を出陣し、京に向かいました。桂川を渡ったところで「敵は本能寺にあり」と宣言しました。そして明智軍は本能寺を包囲しました。馬の嘶きや物音に目覚めた信長が小姓・森成利(蘭丸)に訪ねて、様子をうかがわせました。小姓衆は最初は下々の者の喧嘩だと思っていました。しかし、「本能寺はすでに敵勢に包囲されており多くの旗が見えていました。紋は桔梗(明智光秀の家紋)である」と森成利(蘭丸)に報告され、光秀が謀反に及んだと知りました。森成利(蘭丸)らは信長に対し、本能寺から逃れるよう進言しましたが、光秀の性格や能力、明智軍の兵数を知っていた信長は脱出は不可能と悟り「是非に及ばず」と言い放つと、弓を持って戦いました。弦が切れると、次に槍を取って敵を突き伏せました。しかし、殺到する兵から槍傷を受けたため、それ以上の防戦を断念しました。女衆に逃げるように指示すると、奥に籠りました。こうして、織田信長は森成利(蘭丸)に火を放たせて、自刃したと言われています。しかし、信長の遺骸は発見されませんでした。こうして「天下布武」を掲げ、「尾張の大うつけ」、「上総介」、「右府」、「第六天魔王」などと呼ばれた織田信長は、歴史上から姿を消しました。その頃、明智光秀謀反の報を受けた織田信忠は本能寺に救援に向かおうとしましたが、既に事態は決したから逃げるように側近に諭されました。しかし、織田信忠は明智軍は包囲検問をしているからと逃亡をあきらめて、妙覚寺を離れました。京の行政担当者である村井貞勝らと共に、二条御所に移りました。そして織田信忠は何箇所もの傷を負いながら2人を切り倒し、少人数ながら抵抗をして3度も明智軍を退却させました。京に別泊していた馬廻りたちも少しずつ駆けつけてきました。明智軍は最後の手段で隣接の近衛前久邸の屋根から丸見えの二条御所を銃矢で狙い打ち、側近を殆ど倒しました。こうして織田信忠は自刃し、二条御所は落城しました。妙覚寺には、織田信忠と共に信長の弟・織田長益(後の織田有楽斎)も滞在していました。織田長益は、織田信忠とともに二条御所に移りましたが落城前に逃げ出し、安土城を経て岐阜へと逃れました。
以下は、「本能寺の変」で自害・討死した人物です。
本能寺:織田信長、森成利(蘭丸)−森可成の三男、森長隆(坊丸)−森可成の四男、森長氏(力丸)−森可成の五男、伴正林、一雲斎針阿弥、湯浅直宗、松野一忠、小倉松寿
二条御所:織田信忠−信長長男、織田長利−信長弟、織田勝長−信長五男、斎藤利治−斎藤道三末子、村井貞勝−京都所司代、菅屋長頼、津田元嘉、野々村正成、村井貞成−貞勝長男、団忠正、梶原景久、毛利良勝、村井清次−貞勝二男、金森長則−金森長近長男、福富秀勝、下石頼重、猪子兵助、平古種吉、村井宗信−貞勝弟、赤座永兼

次に、シャクシャインの戦いです。アイヌ民族集団メナシクルとシュムクルは、シブチャリ地方の漁猟権をめぐる争いを続けていました。メナシクルの首長であるカモクタインやシュムクルの首長でありハエに拠点を持つオニビシは惣大将でした。シャクシャインはメナシクルの副首長でしたが、カモクタインが1653年にシュムクルによって殺害されたため、首長となりました。惣大将間の抗争を危惧した松前藩の仲裁により、両集団は一旦講和しました。この際、シュムクルと松前藩は接近して親松前藩的な立場となりました。しかし、メナシクルによってオニビシが殺害されました。シャクシャインにオニビシを殺されたハエのアイヌは、松前藩庁に武器の提供を希望しましたが拒否されたうえ、サルの首長ウタフが帰路に疱瘡にかかり死亡してしまいました。このウタフ死亡の知らせを、アイヌ人は「松前藩による毒殺」と流布しました。この流布を以ってアイヌ民族は松前藩に反感を抱きました。シャクシャインは蝦夷地各地のアイヌ民族に松前藩への蜂起を呼びかけ、多くのアイヌ民族がそれに呼応しました。こうして事態は惣大将や地域集団同士の争いから多数のアイヌ民族集団による対松前藩蜂起へと移行しました。シャクシャインらの呼びかけにより、鷹待や砂金掘り、交易商船を襲撃した他、東蝦夷地では213人、西蝦夷地では143人の和人を殺害しました。一斉蜂起の報を受けた松前藩は、家老の蠣崎広林が部隊を率いて胆振のクンヌイ(長万部町国縫)に出陣してシャクシャイン軍に備えるとともに、幕府へ急報して援軍や武器・兵糧の支援を求めました。幕府は松前藩の求めに応じて弘前・盛岡・久保田の3藩に蝦夷地への出兵準備を命じました。松前藩主・松前矩広の伯父にあたる旗本の松前泰広を指揮官として派遣しました。弘前藩兵は杉山吉成を侍大将に松前城下の警備にあたりました。シャクシャイン軍は松前を目指し進軍し、クンヌイに到達して松前軍と戦闘を行いました。シャクシャイン軍の武器が弓矢主体であったのに対し松前軍は鉄砲を主体としていた事や、内浦湾一帯のアイヌ民族集団と分断されて協力が得られなかった事からシャクシャイン軍に不利となりました。シブチャリに退いたシャクシャインは徹底抗戦の構えであったため、戦いの長期化による交易の途絶や幕府による改易を恐れた松前軍は謀略をめぐらし、シャクシャインに和睦を申し出ました。シャクシャインは結局この和睦に応じ、ピポク(現新冠郡新冠町)の松前藩陣営に出向き、和睦の酒宴で謀殺されました。この他、アツマ(現勇払郡厚真町)やサル(現沙流郡)に和睦のために訪れた首長も同様に謀殺あるいは捕縛されました。その後、シャクシャインの本拠地であるシブチャリのチャシも陥落しました。指導者層を失ったアイヌ軍の勢力は急速に衰え、戦いは終息に向かいました。松前軍はヨイチ(現余市郡余市町)に出陣してアイヌ民族から賠償品を取るなど、各地のアイヌ民族から賠償品の受け取りや松前藩への恭順の確認を行いました。この「シャクシャインの戦い」を経て、松前藩は蝦夷地における対アイヌ交易の絶対的主導権を握りました。その後、松前藩は中立の立場をとって蜂起に参加しなかった地域集団も含めたアイヌ民族に対し、七ヵ条の起請文によって服従を誓わせました。

その次に、村松七士事件です。1860年に越後・村松藩主の堀直休が亡くなり、一族から若い直賀が新藩主として迎えられました。すると今まで藩の中枢から退けられていた門閥派が、巻き返しを図ってきました。堀直休の手足となってその改革を推進してきた側近派の不正を唱えて、彼等を失脚させて藩政から排斥しました。その門閥派の中心人物が堀右衛門三郎でした。一方、失脚した側近派は1863年に、時事問題を論ずる「咄講(はなしこう)」を結成しました。この「咄講」の中の泉仙助、佐々耕庵が藩命で京都に出向き、その時に長州藩と接触を持った事を境に「尊王論」を強め、彼等はやがて「正義党」として活動する事となりました。門閥派の筆頭として藩政を執る堀右衛門三郎は、側近派を母体とする「正義党」を警戒し、その意見をことごとく握り潰しました。1865年、「京都守護職」の会津藩主・松平容保に越後・蒲原郡2万5000石が加増されました。これを機に会津藩は越後国内に兵力を配置し、周辺の小藩に影響力を及ぼしていきました。1866年に「薩長同盟」が締結されると佐幕派と尊王派の対立が激化しました。堀右衛門三郎は「正義党」、藩内の尊王派の弾圧に踏み切りました。長州藩と通謀したとして「正義党」の中心人物7名を捕らえ、激しい拷問の上で罪状を白状させました。その後さらに約60名が捕らえられました。翌1867年6月21日、堀右衛門三郎は会津藩の立会いの下で、逮捕した「正義党」の中心人物7名を処刑しました。岡村定之丞、下野勘平、山崎弥平、中村勝右衛門、稲垣覚之丞は切腹、佐々耕庵と泉仙助は斬首となりました。これが「村松七士事件」です。

その次の次に、北関東戊辰戦争:大田原の戦いです。「塩野崎の戦い」、「板室の戦い」と敗れた会幕軍は、会津藩の原田主馬隊(朱雀足軽三番隊)、有賀左司馬隊(青龍足軽四番隊)、飯野藩脱藩の森要三隊らが加わって総勢1000名となり、大田原へ進軍しました。新政府軍主力は白河へ出陣していた為、この隙を突いたのでした。秋月登之助が率いる主力隊と、原田主馬が率いる迂回隊の2手に分かれて進撃しました。大田原藩兵を撃破して、大田原城下へと突入しました。城下に火を放ち、大田原城は落城寸前になりましたが、突然の豪雨に視界と自由を奪われました。その直後、大田原藩の火薬庫が爆発しました。これを後方からの援軍と勘違いした会幕軍は、撤退しました。この戦いで、大田原藩家老・大田原鉄之進が討死しました。

そのまた次に、北越戊辰戦争:小千谷談判です。北陸道の新政府軍は、北陸道鎮撫総督府の山県有朋と黒田清隆を指揮官として、越後における旧幕府軍の平定と会津藩征討のため、長岡に近い小千谷を占領しました。長岡藩は「大政奉還」以後も徳川家を支持し、長岡藩主・牧野忠訓と上席家老、軍事総督・河井継之助のもと、軍事顧問に招いたプロイセンの商人・スネル兄弟を通じて独自に、当時日本に3門しか無かったガトリング砲の2門を購入し、フランスの新型銃2000挺を購入するなどし、富国強兵に努めていました。また河井継之助の指導の下、恭順派の安田鉚蔵らを退けて藩論を「武装中立論」に統一しました。会津藩は佐川官兵衛を使者として長岡藩に「奥羽列藩同盟」への参加を申し入れましたが、河井継之助は同盟への参加を拒否しました。河井継之助は長岡への侵攻の中止と会津藩の赦免を求めて、新政府軍の軍監・岩村精一郎と小千谷の慈眼寺で会談しました。しかし、岩村精一郎は河井継之助の嘆願を一蹴、談判は決裂しました。長岡藩はやむなく「奥羽列藩同盟」に参加し、他の越後5藩(新発田藩、村上藩、村松藩、三根山藩、黒川藩)もこれに続いて同盟に加わりました。こうして「奥羽列藩同盟」が「奥羽越列藩同盟」となりました。そして、長岡藩と新政府軍の間に戦端が開かれる事になります。この時、長岡藩では門閥家老の稲垣平助など勤皇・恭順派5人が、出奔・逃亡しました。

そのまた次の次に、日本初の軍艦「清輝」が竣工です。「清輝」は明治維新後、初めての国産軍艦として横須賀造船所で建造された日本海軍の軍艦です。日本艦船として初めてヨーロッパへ遠征した事でも有名な艦です。竣工後まもなく「西南戦争」に参戦、翌明治11年から12年にかけてヨーロッパ方面に長期航海を行ないました。その後、「京城事変」にも出征しましたが、機関術練習生の訓練航海中に駿河湾で触礁破壊されました。

さらに次に、星亨暗殺です。星亨は、陸奥宗光の推挙で明治政府に入り、横浜税関長となりましたが、英国のクイーンを「女王」と訳し、「女皇」と訳すべしとするイギリス公使パークスの抗議に、自説を主張して一歩も譲らずに「女王事件」を引き起こして、引責辞任しました。辞任後、法律研究のためイギリスに渡り、日本人初の法廷弁護士資格を取得しました。帰国後は国内で司法省付属代言人(弁護士)の第1号となって活躍しました。藩閥政治を批判し、1887年の「三大事件建白運動」に参加し、保安条例で東京を追われ、出版条例違反で投獄されました。釈放後の1892年には、自らの衆議院議長就任を公約として第2回衆議院議員総選挙に出馬し、当選しました。公約どおりに2代目議長に選ばれました。1893年に「相馬事件」の収賄疑惑によって議長不信任案が可決されました。しかし、議長を不信任となったにも関わらず、議長席への着席に固執したため、衆議院から除名されました。しかし、次回選挙で当選して政界に復帰しました。第4次伊藤内閣で逓信大臣を務めました。1900年発足の「立憲政友会」に参加し、伊藤博文からも信頼を受けるようになりました。その逞しい政治手腕から「おしとおる」とあだ名されました。しかし、1901年に伊庭想太郎(心形刀流剣術第10代宗家)により、市庁参事会室内で刺殺されました。伊庭想太郎は、「箱館戦争」で戦死した隻腕の剣客・伊庭八郎の弟でした。

さらに次の次に、第二次世界大戦:ドイツ軍が北アフリカのトブルクを占領です。イタリアのムッソリーニは、北アフリカ駐留イギリス軍への攻撃をドイツ軍からの要請され、エジプトへ侵攻しました。グラッツィアーニ元帥は兵員8万人からなるイタリア第10軍を戦地に投入しました。イギリス軍が撤退をしたため、順調に進撃し国境から約100km東のシディ・バラニを占領しました。しかし、徒歩移動の部隊が大勢を占め、かつ補給が不足したため、進撃を停止しました。その結果、十分な機械化と補給を受けたイギリス軍3万人が優位に戦いを進めました。オコンナー将軍の指揮下で、イギリス西方砂漠軍は第7機甲師団及び第4インド師団(兵員合計約3万人)を投じ、大規模な反攻作戦「コンパス作戦」を開始しました。イギリス軍の圧倒的な機甲戦力の前にまともな機甲戦力や機械化部隊を持たないシディ・バラニのイタリア第21軍団は、成す術も無く包囲されて壊滅しました。イギリス軍の新戦力第6オーストラリア師団が投入され、後方のバルディアに展開していた残余部隊も激戦の末に降伏しました。その後、これを好機と見てリビアにまで足を伸ばしたイギリス軍に対し、イタリア第10軍は後退戦闘を続けた末にペダ・フォムで内陸部を先回りしたイギリス軍の機械化部隊によって退路を遮断されました。イタリア第10軍は包囲突破を目的とする最後の攻撃をもって壊滅しました。この戦闘中に第10軍指揮官のテレラ将軍は戦死し、コナ中将が指揮を引き継ぎました。リビア駐留軍の総指揮官もグラッツィアーニ元帥に代わり、ガリボルディ将軍に引き継がれました。この戦いで、イタリア軍は捕虜13万名を出す敗北を喫しました。イギリス軍はリビアのトブルクやバルディアなどキレナイカ地方を占領しましたが、ドイツ軍がバルカン半島へ侵攻したため、ギリシャへ援軍を送らねばならず進撃は停止しました。一連の戦闘に大敗したイタリアの要請を受けてドイツが支援を開始する事となり、ロンメルがその指揮官として北アフリカに派遣される事となりました。「砂漠のキツネ」と称される、エルヴィン・ロンメルを指揮官とするドイツ・アフリカ軍団が編成され、リビアに派遣されました。ロンメルは本格的な反攻を開始し、ベンガジを奪回し、イギリスのオコンナー将軍を捕虜にする戦果を挙げました。枢軸国軍はイギリス軍の要塞となっていたトブルクを包囲しました。イギリス軍は「ブレビティ作戦」、「バトルアクス作戦」を行いましたが失敗しました。そして、「クルセーダー作戦」を発動してトブルクの解囲に成功し、撤退する枢軸国軍をエル・アゲイラ付近まで追撃しました。しかし、補給物資の輸送拠点をトブルクにしか設けられなかったため、イギリス軍の進撃は停止しました。一時、エル・アゲイラまで撤退した枢軸国軍でしたが、再び反攻を開始しました。ベンガジが枢軸国軍に占領されたため、イギリス軍はトブルクの西にあるガザラ付近に防衛線を構築しました。両軍とも物資補給と戦力の補充のため、ガザラで対峙する形勢となりました。枢軸国軍はイギリス軍のガザラ防衛線に攻撃を開始し、激戦の末にイギリス軍は敗北しました。さらに枢軸国軍の攻撃が続き、ついにトブルクが陥落しました。「ガザラの戦い」に敗北したイギリス軍は、エジプト領内に撤退してカイロの西、エル・アラメインに防御ラインを設定する事になります。そしてイギリス軍はモンゴメリーを指揮官に任命し、ロンメルとの決戦「エル・アラメインの戦い」を行う事になります。

最後に、富岡製糸場と絹産業遺産群が世界遺産に登録です。「富岡製糸場と絹産業遺産群」は、群馬県富岡市の「富岡製糸場」および、伊勢崎市、藤岡市、下仁田町の2市1町に点在する養蚕関連の文化財によって構成される世界遺産です。2007年1月に近代化遺産として暫定リストに含まれた物件で、日本の近代化への寄与に留まらず、絹産業の国際的技術交流および技術革新を伝える文化遺産として、2013年1月に「世界遺産センター」に推薦書が提出されました。2014年6月21日に「第38回世界遺産委員会(ドーハ)」で「世界文化遺産」に登録されました。既存の世界遺産には、絹産業を価値の中心にした物件は存在しません。以下の4物件が絹産業の技術交流や技術革新に成した貢献は「世界遺産」としての顕著な普遍的価値を備えており、「富岡製糸場」に匹敵する近代的な製糸工場は見当たらないと判断されました。構成資産は以下の通りです。
富岡製糸場:群馬県富岡市に「官営模範工場」として開業し、日本の製糸業の発展に大きな影響を及ぼしました。「繰糸所」は、「富岡製糸場」の中で中心的な建物であり、梁間140.4m、桁行12.3mの木骨レンガ造りです。当時、世界最大規模でした。「東置繭所」と「西置繭所」は長さ104.4m、幅12.3mの木骨レンガ造りで、主に2階部分が繭置き場に使われました。2棟合わせて約32トンの繭が収容できました。「蒸気釜所」は「富岡製糸場」の動力を司り、一部は煮繭に使われました。「首長館(ブリューナ館)」は、ブリューナ一家が滞在するために建設された木骨レンガ造りの建物です。「女工館(2号館)」は「首長館」と同じ、木骨レンガ造りの建物でフランス人の教婦(女性技術指導者)たちのために建てられました。「検査人館(3号館)」は、フランス人の男性技術指導者の宿舎として建てられました。「鉄水溜」は、創建当初のレンガにモルタルを塗った貯水槽が水漏れによって使えなくなった事で、横浜製造所に作らせた鉄製の貯水槽です。その貯水量は約400トンに達し、鉄製の国産構造物としては現存最古と言われています。逆に排水を担ったのが「下水竇」と「外竇」で、レンガを主体として築かれた暗渠です。
田島弥平旧宅:群馬県伊勢崎市に残る古民家です。「清涼育」と呼ばれる養蚕技術を確立し、養蚕農家の様式にも影響を与えた人物の住宅です。「母屋」は総2階建てで間口は約25m、奥行きは約9m、屋根には「総ヤグラ」と呼ばれる形式の風通し口が設けられています。近代養蚕農家の原型」と言える蚕室構造を残しています。
高山社跡:群馬県藤岡市にある高山長五郎によって設立された「高山社」に関わる史跡です。「高山社」は、「清温育」と呼ばれる養蚕技術を確立し、蚕業学校によって知識や技術の普及を図った組織です。高山長五郎は、田島弥平が確立した「清涼育」とは別に、針山新田(現・片品村)の養蚕農家で導入されていた「温暖育」を折衷し、独自の養蚕経験で「清温育」を確立しました。「高山社跡」は、換気用の天窓が3つ突き出た「高山家住宅」、「長屋門」、「桑の地下貯蔵庫跡」などから構成されています。
荒船風穴:群馬県下仁田町にある「風穴」です。冷涼な環境での蚕種貯蔵によって、春だけでなく夏から秋にかけての養蚕を可能にし、生糸生産量の増大にも貢献しました。「第1号」、「第2号」、「第3号」の3つの「風穴」で構成されています。石積みの「風穴」の上に土蔵のような建物を建て、中は地下2階、地上1階の3層に分けられています。これは春蚕、夏秋蚕の貯蔵を分けた上、出荷の際は順に層を上がる事で自然に外気の温度に慣れさせるようにする配慮からでした。

今日の誕生日:本居宣長、寺島宗則、相沢忠洋、長山藍子、鈴木ヒロミツ、秋元順子、ジョーイ・クレイマー(エアロスミス)、住田裕子、ミシェル・プラティニ、長谷川初範、大木ひびき(こだま・ひびき)、青山剛昌、石井浩郎、松本伊代、朝原宣治、関暁夫(元ハローバイバイ)、笛木優子、涌井秀章、手嶌葵、高城れに(ももいろクローバーZ)、岡井千聖(℃-ute)、松山光

今日の記念日:父の日、世界音楽の日、スナックの日、がん支え合いの日、AGEについて考える日、えびフライの日、キャンドルナイトの日、ソープカービングの日、フルーツカービングの日

今日の「今日訓」:本日は、6月第3日曜日「父の日」です。1910年、アメリカ・ワシントン州のジョン・ブルース・トッド夫人が父の思いを受け継ぎ、「母の日」のように父にも感謝する日を制定しようと運動を展開したのが最初となりました。アメリカでは、父の日(6月第3日曜日)にはバラを飾り、黄色いハンカチやスポーツシャツをプレゼントします。1976年に当時フランスの放送局に雇用されていたアメリカのミュージシャンのジョエル・コーエンが提唱した「夏至の日」を音楽で祝う音楽祭から「世界音楽の日」、「夏至の日」に、餅を固くして食べる「歯固」という習慣があった事で「スナックの日」、「夏至」になる事の多いこの日を記念日とした「がん支え合いの日」、「AGEについて考える日」、「キャンドルナイトの日」、「ソープカービングの日」、「フルーツカービングの日」、曲がったエビの形が「6」に見える事と「2(フラ)1(イ)」と読む語呂合わせで「えびフライの日」となりました。
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