mixiユーザー(id:48382454)

2015年06月12日00:23

177 view

6月12日の日記

今日の出来事:今日の出来事:1560年−桶狭間の戦い、1592年−文禄の役:漢城(ソウル)陥落、1868年−北関東戊辰戦争:板室の戦い、1942年−アンネ・フランクが13歳の誕生日プレゼントとして日記帳をもらう、アンネの日記の書き始め、1978年−1978年宮城県沖地震、2009年−新型インフルエンザの世界的流行:WHOが新型インフルエンザの警戒水準をフェーズ6に引き上げ、パンデミックを宣言

今日は、桶狭間の戦いです。桶狭間の戦いは、「河越夜戦」、「厳島の戦い」と並ぶ「日本三大奇襲」の一つです。今川義元は、甲斐国の武田氏、相模国の後北条氏と「甲相駿三国同盟」を結びました。尾張国では守護・斯波氏の家臣で、清洲織田氏の家老である織田弾正忠家が成長し、織田氏と今川氏は織田信秀の時代から三河・尾張両国の国境地帯の支配を巡って長らく争ってきました。西三河を支配していた国衆である松平氏が若い当主の相次ぐ変死で弱体化し、今川氏の保護下に組み込まれていました。「第一次小豆坂の戦い」では織田方が勝利し、織田側が優勢でした。しかし、「第二次小豆坂の戦い」では今川方が勝利を収め、織田氏の勢力は尾張・三河の国境線から後退、尾張国内の鳴海城、大高城、沓掛城の一帯が今川氏の手に落ち、今川方が優勢でした。その後、織田氏は逆襲に転じ、鳴海城の周囲を取り巻くように丹下砦、善照寺砦、中嶋砦を築き、鳴海城を圧迫しました。鳴海城の南にある大高城も織田氏の築いた丸根砦、鷲津砦によって鳴海城、沓掛城との連絡を遮断され、孤立していました。この情勢の下、今川義元は自ら大軍を率いて駿府を発ち、尾張を目指して東海道を西進しました。尾張の今川方諸城の中で最も三河に近い沓掛城に入った今川軍は、松平元康(徳川家康)が率いる三河勢を先行させ、大高城に兵糧を届けさせました。松平元康と朝比奈泰朝は織田軍の丸根砦、鷲津砦に攻撃を開始しました。今川の大軍の前に織田家内部では清洲城に籠城か白兵戦かで揉めました。織田信長は今川軍の攻撃開始の報を得て、飛び起きて幸若舞「敦盛」を舞った後に出陣の身支度を整えると、明け方に清洲城より出発、小姓衆5騎のみを連れて出た信長は熱田神社に到着、軍勢を集結させて熱田神宮に戦勝祈願を行いました。信長の軍は鳴海城を囲む砦の1つ、善照寺砦に入っておよそ2000〜3000人の軍勢を整えました。一方、今川軍の先鋒松平隊の猛攻を受けた丸根砦の織田軍500名余りは城外に討って出て白兵戦を展開、大将の佐久間盛重は討死しました。鷲津砦では籠城戦を試みましたが飯尾定宗、織田秀敏が討死、飯尾尚清は敗走しましたが一定の時間稼ぎには成功しました。大高城周辺の制圧を完了した今川軍は、今川義元が率いる本隊が沓掛城を出発して、大高城の方面に向かって西に進みました。一方の織田軍は、善照寺砦に佐久間信盛500余りを置き、2000の兵で出撃しました。鳴海から見て東海道の東南に当たる桶狭間の方面に敵軍の存在を察知し、東南への進軍を開始しました。中嶋砦の前衛に張り出していた佐々政次、千秋四郎ら300余りの部隊は信長出陣の報に意気上がり、単独で今川軍の前衛に攻撃を仕掛けました。しかし、これは勇み足となって逆に佐々政次、千秋四郎らは討ち取られてしまいました。今川義元は丸根、鷲津両砦の陥落に加え、緒戦でのこの勝利に更に気を良くしました。その後、突如豪雨が降り視界が悪くなりました。雨が止んだ直後、織田軍は今川義元の本隊に接触、攻撃を開始しました。全軍で2万を数えた今川軍が、猛攻によって大混乱に陥りました。そして、今川義元の旗本部隊に信長の親衛隊が突入しました。今川義元は輿を捨て、30騎の親衛隊の部下が円形に取り囲みつつ自身も騎馬で退却しましたが、信長の馬廻・服部一忠に追いつかれて斬りかかられ、服部一忠の右ひざを斬って負傷させました。しかし服部一忠との格闘の間に迫ってきた新手の毛利良勝と乱戦になる中で、信長自身が追いつき馬を降りて、今川義元を助けようと近づいてくる親衛隊を斬る中、組み伏せられた義元は、ついに毛利良勝によって討ち取られました。今川義元の戦死により今川軍本隊は混乱し、合戦は織田軍の大勝に終わりました。総大将・今川義元や松井宗信、久野元宗、井伊直盛、由比正信、一宮宗是、蒲原氏徳、三浦義就、久野元宗、久野氏忠、松平政忠、長谷川元長、飯尾乗連などの有力武将を失った今川軍は浮き足立ち、残った諸隊も駿河に向かって後退しました。大高城を守っていた松平元康も合戦直後に大高を捨て、岡崎城近くの大樹寺(松平家菩提寺)に入りました。今川軍は総大将・義元を失ったために総後退となり、岡崎城を守っていた今川軍の城代・山田景隆も城を捨てて駿河に去りました。松平元康はこれを接収し、岡崎城に入城しました。尾張・三河の国境で今川方に就いた諸城は、依然として織田方に抵抗しました。今川軍を破った織田軍は、7月14日に沓掛城を攻略して近藤景春を敗死させるなどし、一帯を一挙に奪還しました。しかし、鳴海城は城将・岡部元信らが踏み止まって頑強に抵抗を続け、ついに落城しませんでした。岡部元信は織田信長と交渉し、今川義元の首級と引き換えに開城しました。駿河に帰る途上で、刈谷城を攻撃して水野信近を討ち取るなどし、今川義元の首を携えて駿河に帰国しました。

次に、文禄の役:漢城(ソウル)陥落です。二番隊・加藤清正は、一番隊・小西行長が計画通りに釜山で待機せずに進撃して、手柄を取った事に対して怒りを表していました。そこで、鍋島直茂は和解案として、軍を二手に分けてそれぞれが別の道から漢城(ソウル)を目指す事として、漢城に早く着けそうな方の道を加藤清正ら二番隊が取る事を提案しました。こうして一番隊と二番隊は出発し、漢城まで競争となりました。加藤清正は漢江を渡る短い道を選び、小西行長は上流へ向かって水量の少ない場所を渡る事としました。結局、船がないために二番隊が漢江で足止めされている間に、小西行長の方が先に漢城に到着しました。一番隊が漢城に到着してみると、城門は堅く閉じられていたものの守備隊はいませんでした。その先日に宣祖王は、平壌へ逃れるために出発していたのでした。日本軍は城壁にあった小さな水門を壊して入り、内側から城門を開きました。結局、一番隊と同じ道を通って来た加藤清正ら二番隊は翌日に漢城に到着しました。その翌日に三番隊、四番隊が到着しました。その後、五番隊、六番隊、七番隊、八番隊が釜山へ上陸し、九番隊は予備として壱岐に駐留を続けました。こうして首都・漢城を占拠しました。

その次に、北関東戊辰戦争:板室の戦いです。「塩野崎の戦い」で、敗れた会幕軍は板室へ退きました。新政府軍、約200人は板室へ追撃してきました。背後を突かれた会幕軍は敗れ、三斗小屋に撤退しました。新政府軍は、板室、阿久戸、油井の家々を焼払った後、大田原に戻りました。

その次の次に、アンネ・フランクが13歳の誕生日プレゼントとして日記帳をもらう、アンネの日記の書き始めです。アンネ・フランクは、ユダヤ系ドイツ人の少女です。ナチスの政権掌握後、迫害から逃れるため、フランク一家はドイツを離れてオランダのアムステルダムへ亡命しました。しかし第二次世界大戦中、オランダがドイツ軍に占領されると、オランダでもユダヤ人狩りが行われ、父オットー・フランクの職場があったアムステルダムのプリンセンフラハト通り263番地の隠れ家で、潜行生活に入る事を余儀なくされました。ここでの生活は2年間に及び、その間、アンネは隠れ家での事を日記に書き続けました。しかし、ゲシュタポに隠れ家を発見され、住人は全員がナチス強制収容所へと移送されました。アンネは姉のマルゴット・フランクとともにベルゲン・ベルゼン強制収容所へ移送されました。収容所の不衛生な環境に耐えぬく事はできず、チフスを罹患して15歳にしてその命を落としました。ゲシュタポに荒らされた隠れ家には、アンネが付けていた日記が残されていました。オットーは娘アンネの戦争と差別のない世界になってほしいという思いを全世界に伝えるため、日記の出版を決意しました。この日記は60以上の言語に翻訳され、2500万部を超える世界的ベストセラーになりました。この日記は、1942年6月12日の13回目のアンネの誕生日に、父・オットーからのプレゼントで贈られたサイン帳をでした。表紙全体に赤と白のチェック模様が入っている、女の子らしいサイン帳でした。アンネはこのサイン帳を日記帳として使用する事にしました。その日、最初の日記をつけています。後世に「アンネの日記」として世界的に知られる事になる日記の執筆の始まりです。日記の最初はこのように記されています。「あなたになら、これまで誰にも打ち明けられなかったことを何もかもお話しできそうです。どうか私のために大きな心の支えと慰めになってくださいね。−1942年6月12日」

最後に、1978年宮城県沖地震です。1978年宮城県沖地震は、マグニチュード7.4、仙台で震度5を記録した地震です。死者28名(ブロック塀などの下敷き18名)、負傷者1万名余り、建物の全半壊7400戸、停電70万戸、断水7000戸、都市ガスが13万戸で供給停止となりました。交通では、国鉄が全面運休となり運行再開に1週間かかりました。仙台市営バス・宮城交通バスは地震発生直後に運行を再開しましたが、停電により交通信号が機能しなくなったため、警察官による手信号が行われていましたが、夕方の帰宅ラッシュとも重なり交通渋滞が激しくなり、道路交通は深夜まで麻痺状態でした。この地震では、ライフライン等が停止し都市生活が麻痺しました。これは、50万人以上の大都市(当時の仙台市は人口およそ65万人)が経験した初めての「都市型地震災害」となりました。6月12日は宮城県では「県民防災の日」とされ、地震に備えた防災訓練がなされています。家屋倒壊被害が甚大であったため、「建築基準法」の改正につながりました。この改正の要旨は、建築物の耐震基準の強化で「震度5強程度の中規模地震では軽微な損傷、震度6強から7程度の大規模地震でも倒壊は免れる」強さとすることを義務づけました。

今日の誕生日:高宗、徳川忠長、円山応挙、高野長英、ジョージ・H・W・ブッシュ(第41代アメリカ合衆国大統領)、アンネ・フランク、江副浩正、沖雅也、宮本浩次(エレファントカシマシ)、白石麻子(元おニャン子クラブ、元ニャンギラス)、中村綾、松井秀喜、里谷多英、釈由美子、杉原杏璃、後藤夕貴(THE ポッシボー)、室田瑞希(アンジュルム)、小林歌穂(私立恵比寿中学)

今日の記念日:児童労働反対世界デー、恋人の日、エスペラントの日、宮城県民防災の日、日記の日、バザー記念日、晩餐館焼肉のたれの日、恋と革命のインドカリーの日

今日の「今日訓」:本日は、児童労働を無くす事を世界に呼びかける日「児童労働反対世界デー」、ブラジルで縁結びの神とされる「アントニオ」の命日の前日、恋人同士でフォトフレームを贈り合う日です。日本でも1988年に制定されました。1906年に「日本エスペラント協会」が設立された事を記念して「エスペラントの日」、アンネ・フランクが日記を書き始めた日を記念して「日記の日」、1884年に鹿鳴館で日本初のバザーが開催された事で「バザー記念日」となりました。1989年6月12日に「晩餐館焼肉のたれ」が発売された事で「晩餐館焼肉のたれの日」、1927年6月12日、日本で初めて「純印度式カリー」を売り出した「中村屋」の創業者・相馬愛蔵氏の娘が、インド独立運動の活動家のラス・ビハリ・ボース氏と恋に落ちた事をきっかけに「インドカリー」が誕生した事から「恋と革命のインドカリーの日」、1978年6月12日に「宮城県沖地震」が発生した事で「宮城県民防災の日」となりました。県民の防災意識を高めるために、宮城県各地で防災訓練が行われます。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する