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2015年06月03日13:52

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6月3日の日記

今日の出来事:708年−日本初の国産貨幣・和同開珎発行、1183年−源平合戦:志保山の戦い、1570年−金ヶ崎の退き口、1576年−石山合戦:天王寺の戦い、1865年−岡田以蔵刑死、1869年−箱館戊辰戦争:第二次二股口の戦い、1991年−雲仙普賢岳で火砕流発生、報道関係者なども巻き込まれ43人死亡、2001年−札幌ドーム開業

今日は、日本初の国産貨幣・和同開珎発行です。和同開珎は、直径24mm前後の円形で中央には一辺が約7mmの正方形の穴が開いている円形方孔です。表面には時計回りに「和同開珎」と表記されており、裏は無紋です。律令政府が定めた通貨単位である1文として通用しました。当初は1文で米2kgが買えたと言われ、新成人1日分の労働力に相当したとされます。埼玉県秩父市黒谷(和銅遺跡)から和銅が産出した事を記念し、元明天皇が「和銅」に改元し、「和同開珎」が作られました。貨幣制度を整えるためと平城京遷都の直前だったため、遷都の経費を補う目的もありました。

次に、源平合戦:志保山の戦いです。1183年6月2日、二手に分かれた平家軍に対抗するため、木曾義仲は源行家の1万騎を志保山に、自身は砺波山(倶利伽羅峠)へと進軍しました。その後、「倶利伽羅峠の戦い」で平家軍に勝利した木曾義仲は、翌6月3日に志保山へ援軍として2万騎を率いて出陣しました。満潮時の氷見の湊を渡河して駆け付けると、源行家軍は散々に蹴散らされておりました。木曾義仲軍は、平家軍に突入して乱戦となりましたが、連戦で疲れている平家軍を圧倒して勝利しました。この戦いで、平知度が岡田親義・重義父子と相打ちとなって討死しました。これが、源平合戦で平氏の最初の討死者となりました。

その次に、金ヶ崎の退き口です。織田信長・徳川家康連合軍は3万の軍を率いて、越前の朝倉義景討伐に出陣しました。池田勝正・松永久秀も従軍していました。朝倉領に侵攻した織田徳川連合軍は、手筒山城を皮切りに敦賀郡の朝倉氏側の城に攻撃をかけ、翌日には金ヶ崎城の朝倉景恒を降しました。しかし、信長の義弟である北近江の浅井長政が裏切ったという情報が入りました。このため、挟み撃ちになった織田徳川連合軍は撤退する事になり、池田勝正、明智光秀が殿軍となりました。この時、木下秀吉が自ら名乗りを挙げて見事に殿軍を務めました。信長は近江の豪族・朽木元綱の協力で、越前敦賀から朽木を越えて京へ逃げ延びました(朽木越え)。信長は論功行賞で秀吉の貢献を称えて黄金数十枚を与えました。その後、この金ヶ崎の殿軍は日本陸軍でも撤退戦の手本とされる事になります。

その次の次に、石山合戦:天王寺の戦いです。1570年、石山本願寺の門跡・顕如は織田信長との対決を決意し、「石山合戦」が始まりました。本願寺と織田軍は一進一退を繰り返しましたが、顕如の義兄・武田信玄の病死や浅井長政、朝倉義景、長島一向一揆の滅亡などで、次第に追いつめられていきました。そんな中、1576年に足利義昭の呼びかけに応じて毛利輝元が信長包囲網の一翼に参加し、本願寺に兵糧などの援助を始めました。顕如は、畿内の信徒に動員令を出して5万の兵力を集めました。こうして、本願寺と織田家の戦闘が再開される事となりました。織田信長は本願寺の挙兵により、佐久間信盛、明智光秀、塙直政、細川藤孝、筒井順慶、中川清秀、高山右近、荒木村重らを摂津方面に出兵させました。5月12日、織田信長は荒木村重に尼崎から海上を通って北の野田に3箇所、明智光秀、細川藤孝らには南東の守口・森河内の2箇所、塙直政には南の天王寺に1箇所それぞれ砦を築かせ、本願寺の包囲を強めました。本願寺側は楼の岸・木津の2箇所に砦があり、難波方面への水路を確保していました。織田信長はこれを断つために木津砦を攻撃する事を決め、天王寺砦に佐久間信盛の嫡男・信栄と明智光秀を入れました。5月30日早朝、織田軍は木津に攻撃をかけました。先陣は三好康長、根来衆、和泉衆、2番手が塙直政、大和衆、山城衆でした。しかし、楼の岸砦から本願寺勢の約1万が討って出てきて織田軍を包囲し、数千丁の鉄砲で雑賀衆が銃撃を加えました。塙直政の軍勢が数刻間も戦いましたが敵に囲まれて、塙直政は一族の塙安弘、塙小七郎や蓑浦無右衛門、丹羽小四郎らと共に討死、三好康長は逃亡して軍は崩壊しました。本願寺勢は勢いに乗じて天王寺砦を包囲して攻撃しました。窮地に陥った明智光秀、佐久間信栄らは京都に滞在していた織田信長に援軍を要請しました。これを聞いた織田信長は諸国に動員令を出し、6月1日に100人の兵を率いて河内・若江城に入りました。6月3日、織田信長は3000の兵で本願寺勢1万5千に突撃しました。先陣は佐久間信盛、松永久秀、細川藤孝、若江衆、2番手は滝川一益、蜂屋頼隆、羽柴秀吉、丹羽長秀、稲葉一鉄ら、3番手は織田信長の馬廻りで、自身は先手の足軽に混じって指揮を取りました。本願寺勢は多数の鉄砲で防戦しましたが、織田軍はこれに突っ込んで敵陣を切り崩し、天王寺砦の守備隊と合流しました。この際、織田信長は敵の鉄砲を足に受けて軽傷を負いました。しかし、本願寺勢は退却せずに陣形を立て直そうとしました。織田信長はそこへ再度攻撃かけて、本願寺勢を撃破しました。更に石山本願寺の木戸口まで追撃し、2700余りの敵を討ち取りました。こうして、織田軍の大勝で「天王寺の戦い」は幕を閉じました。織田信長は大坂の10箇所に付城を作るように命じ、佐久間信盛・信栄父子と松永久秀らを天王寺砦に入れて若江城に帰還しました。以後、本願寺軍は討って出ようとはせず、徹底した籠城戦になります。織田信長は「稲生の戦い」、「桶狭間の戦い」、「天王寺の戦い」の3度だけは、敵に劣る兵力で戦って勝利しました。いずれも、織田信長が陣頭に立って戦いました。

そのまた次に、岡田以蔵刑死です。岡田以蔵は、土佐藩郷士で「人斬り以蔵」の名で知られています。田中新兵衛、河上彦斎、中村半次郎と共に「幕末四大人斬り」の一人です。武市瑞山に師事し、小野派一刀流(中西派)の麻田直養に剣術を学びました。1856年、武市瑞山に従って江戸に出て、鏡心明智流剣術を桃井春蔵の道場・士学館で学びました。武市瑞山の結成した「土佐勤王党」に加盟し、王政復古運動に尽力しました。平井収二郎ら「土佐勤王党」の同志と共に、土佐藩下目付・井上佐市郎の暗殺に参加しました。また、薩摩藩や長州藩の同志達と共に、「安政の大獄」で尊王攘夷派の弾圧に関与した者達に「天誅」と称して集団制裁を加えました。越後出身の本間精一郎、森孫六、大川原重蔵、渡辺金三、上田助之丞などの京都町奉行の役人や与力、「安政の大獄」を指揮した長野主膳の愛人・村山加寿江の子・多田帯刀などが標的にされました。このため後世、「人斬り以蔵」と称されて恐れられました。岡田以蔵は1863年に脱藩し、その後「八月十八日の政変」で「土佐勤王党」は衰勢となりました。その後、酒色に溺れて同志から借金を繰り返し、同志と疎遠になった後に坂本龍馬の紹介で勝海舟の元に行きました。1864年、犯罪者として幕吏に捕えられて入墨の上で京洛追放となると同時に、土佐藩吏に捕われて土佐へ搬送されました。土佐藩では吉田東洋暗殺、京洛における一連の暗殺に関して首領・武市瑞山を含む「土佐勤王党」の同志が捕らえられていました。岡田以蔵は、連日の拷問に屈して自分の罪状及び「天誅」に関与した同志の名を白状しました。これが、「土佐勤王党の獄」のきっかけとなりました。1865年6月3日、打ち首、獄門となりました。享年28でした。
岡田以蔵が関わったとされる暗殺事件は、以下です。「井上佐市郎暗殺」、「本間精一郎暗殺」、「宇郷重国暗殺」、「猿の文吉暗殺」、「四与力殺害事件」、「平野屋寿三郎、煎餅屋半兵衛生き晒し」、「多田帯刀暗殺」、「池内大学暗殺」、「賀川肇暗殺」

そのまた次の次に、箱館戊辰戦争:第二次二股口の戦いです。二股口は、旧幕府軍の陸軍奉行並・土方歳三が「衝鋒隊」を率いて守備していました。5月27日、新政府軍の第二陣2400名が江差に上陸すると土方歳三の援軍要請により、二股方面には薩摩・水戸藩兵などからなる援軍が派遣され、弾薬と食糧も補給されました。一方で、二股の堅塁を抜く事が容易ではないと痛感した新政府軍は、5月28日以降は厚沢部から山を越えて内浦湾に至る道を山中に切り開き始めました。ここから兵と銃砲弾薬を送り込んで旧幕府軍の背後から二股口を攻める作戦でしたが、この作業も困難を極めました。この間、旧幕府軍は滝川充太郎が率いる伝習士官隊2個小隊を増強しました。6月3日、福山藩が警備していた新政府軍の天狗山陣地に、旧幕府軍の斥候が近づいて戦闘が始まりました。午後4時頃、胸壁突破を断念した新政府軍が急峻な崖によじ登って旧幕府軍の左手の山から小銃を撃ち下ろし、そのまま夜を徹しての大激戦となりました。未明に、滝川充太郎が率いる伝習士官隊が新政府軍陣地に突撃を敢行しました。滝川充太郎は馬上のまま敵中に突進し、隊士たちも一斉に抜刀して隊長に続きました。不意を付かれた新政府軍は混乱し、自軍の敗走を単身食い止めようとした軍監・駒井政五郎は銃弾を受けて戦死しました。それでも新政府軍は新しい兵を次々に投入しましたが、旧幕府軍を打ち破るには至らずに撤退しました。一昼夜以上に及んだこの戦闘で、旧幕府軍は熱くなった銃身を桶水で冷やしながら、小銃を撃ち続けました。新政府軍はこれ以降、台場山攻略をあきらめて迂回路の構築に専念する事になります。ここで戦死した新政府軍の軍監・駒井政五郎は、長州藩士で吉田松陰の「松下村塾」に学んだ門下生でした。

最後に、雲仙普賢岳で火砕流発生です。雲仙岳は長崎県の島原半島中央部にある火山で、千々石カルデラの外輪に位置します。普賢岳、国見岳、妙見岳の三峰、野岳、九千部岳、矢岳、高岩山、絹笠山の五岳からなる山体の総称で「三峰五岳の雲仙岳」と呼ばれます。取材に当たっていた報道関係者16名(アルバイト学生含む)、火山学者ら4名(クラフト夫妻と案内役、アメリカ地質調査所のハリー・グリッケン)、警戒に当たっていた消防団員12名、報道関係者に同行したタクシー運転手4名、警察官2名、選挙ポスター掲示板撤去作業中の職員2名、農作業中の住民4名の合わせて死者行方不明者43名と9名の負傷者を出す大惨事となりました。報道関係者が避難勧告区域の中に勝手に入り込み取材を続けたため報道関係者に傭車され独断で避難できなかったタクシー運転手、報道関係者が民家に無断で侵入(不法侵入罪が成立)し、コンセントの電気を無断で使用(窃盗罪が成立)する等したため、これを警戒するため一旦後方に下がりながらも再度進出せざるを得なくなった消防団員と警察官が、それぞれ巻き込まれる形で殉職しました。被害は、報道関係者が無視した避難勧告区域にいた事が主因です。消防団員のほとんどが地元農家の跡取り息子だったため、その後の農業復興に甚大な被害をもたらしました。なお、火砕流で死亡した日本テレビのカメラマンが使用していた業務用ビデオカメラが発見され、内部のテープを取り出して修復する事に成功しました。ビデオには、火砕流が襲来する直前まで取材を続ける記者らの姿や音声が記録されていました。この映像はテレビ放送され、現在では溶けたカメラと共に雲仙岳災害記念館に展示されています。しかしこの事で、火砕流が世界で初めて鮮明な映像として継続的に記録された噴火活動となりました。この時、新たに雲仙岳最高峰となる平成新山(1483m)が誕生しました。

今日の誕生日:細川幽斎、和田勉、ラウル・カストロ、スージー・クアトロ、黒田知永子、唐沢寿明、亀田誠治(元東京事変)、長嶋三奈、貴水博之(access)、嶺川貴子(元L⇔R)、大内登(元ビビる)、ステファン・レコ、鈴木桂治、川崎宗則、エレーナ・イシンバエワ、福士誠治、長澤まさみ、三浦翔平

今日の記念日:測量の日、ウェストン記念日、雲仙普賢岳祈りの日、ムーミンの日

今日の「今日訓」:本日は、雲仙普賢岳祈りの日です。黙祷!、1991年6月3日、雲仙普賢岳で大火砕流が発生し43人が犠牲者となりました。この犠牲者を追悼するため、長崎県島原市では大火砕流が発生した午後4時8分にサイレンが鳴らされ、市民に黙祷を呼びかけています。1949年に「測量法」が制定された事を記念して「測量の日」、イギリス人宣教師で日本アルプスを初めて踏破した日本近代登山の祖、ウェルター・ウェストンを偲んで「ウェストン記念日」、「ムー(6)ミン(3)」の語呂合わせで「ムーミンの日」となりました。
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