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2015年05月19日23:40

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正史にオマージュ 第105回



終章 事件が解決したあとで(承前)



 ロドリゲス中尉の目が剃刀のように細くなっている。髭の口許がわずかに吊りあがった。
「あなたは何者だ。この村の住人ではなさそうだ」
 ディオスは身分証明書を提示した。
「NGOか?」
「そうだ」
「この国に難民はいない」
「認定された難民という意味でなら、まだ、いない。しかし、選挙の結果しだいでは、分からない」
「それで、選挙の前から嗅ぎまわっているのか。言っておくが、この身分証明は、現政権の発行したものだが、その政権の実効力が及ぶ範囲は、首都周辺の極めて狭い地域にすぎない」
「他に身分証明書を発行してくれるところがあれば、申請する用意はある。複数の政治勢力がある場合、私たちは、どちらにも認めてもらうようにしているし、どちらかに加担することはしない。それに、なにかを嗅ぎまわっているのではない。ただ、万一、難民が発生した場合に、すみやかに対処したいだけだ。あなたなら、そのことは理解できるはずだ」
「そちらの女性の知り合いだとさっきは言ったな」
「それも事実だ。彼女の婚約者は国連難民高等弁務官事務所のスタッフで、私の親友だ。近所に来ているのを知ったので、訪ねただけだ。ここには救援活動のためにいるのではない。この村には、私用で、彼女に会いにやって来たのだ」
 ロドリゲス中尉は疑念を解いたわけではなさそうだった。だが、そのとき、大きな声で「テニィエント」と呼ぶ声がして、早口のスペイン語が続いた。さっと中尉の顔色が変わった。突然、スペイン語ではない言葉で怒鳴った。弟子待が眉をひそめるのと、ディオスが叫ぶのが同時だった。
「処刑とはどういうことです」
 弟子待がディオスの言葉を日本語に訳し、さらに小声でつけ足した。
「処刑の準備が出来たと報告が来た。中尉が答えた言葉は分からない。ケチュア語かもしれない……実は、ここに来る前に、チャベスさんが奴らに逮捕されてる」
「スパイ容疑か」
 私がおろおろしている間に、ディオスが弟子待に訪ねた。弟子待が「たぶん」と言った。あわただしく駆け出したロドリゲス中尉たちを追って、私たちも立ち上がる。縁側でロドリゲスに追いついたディオスが、中尉の腕を取った。だが、中尉は歩みを止めず、並んで進むことになった。
「チャベスは本当にスパイなのか」
「チャベス? 誰だ」
 そう言うと、ロドリゲスは薄笑いを浮かべた。
「あなたがたが逮捕した男だ」
「奴の名はルーゴ・サンチェスだ。もっとも、名前なら、スーパーマーケットで売るほど持っている。アレック・セグーラ、アレックス・ディミトリオス、ギレリュモ・ヘイドン。どれでも、好きなので呼ぶがいい」
「私も名前にはこだわらない。それで、本当にスパイなのか?」
「証拠写真で確認した。国家警察に使われている」
「しかし、いま、ここで処刑するのはおかしい。少なくとも、裁判か軍法会議にかけるべきだ」
「分かっている。いま急いでいるのは、止めるためだ」
 そう言うと、ロドリゲスは手を振り払った。立ち止ったディオスを置いて、縁側を下りたが、すぐに一度ふり返った。
「あなたのような先進国のNGOの目の前で、無謀なことは出来ない。とくに、選挙の直前のいまは。しかし、言っておく。奴を一番処刑したいと思っているのは、私だ」
 機関銃を構えて先頭で入ってきた黒人兵のひとりを残して、他の人間は坂を下って行った。私たちは祖父の部屋に戻った。襖をあけた瞬間、私はひきつった声をあげた。祖父が口から血を流して苦しみのたうっている。弟子待とディオスと私の三人で、三方から抱き起こした。うめき声が血とともに吹き散る。
「舌を噛み切ってる……たぶん、切りきれてない」
ディオスが顔を曇らせて言った。突然、耳元で轟音がした。兵士が拳銃を取り出し、祖父の眉間に一発だけ撃ちこんでいた。
「この男は助からない。目が天国か地獄に行きたそうにしていた。たぶん地獄だろう」
 男が拳銃をホルスターにしまいながら言った言葉を、ディオスが通訳してくれた。

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