13 雨がやむ
通夜の席はいたたまれなかった。由美子さんは放心したきり正座を崩さず、微動だにしない。しかも、誰が話しかけても反応しなかった。沈黙のうちに、重苦しさだけがつのった。弟子待（でしまつ）は私のノートを持って、さっさと家に帰ってしまった。たまりかねて、彦島、飯�爐箸い辰真佑燭舛範辰傾腓辰董∋�間を決めて交代で通夜の席に残って、由美子さんの様子を見守り、あとは眠ることにした。幸い、母屋に部屋はあまっている。心配なのは、由美子さんの精神状態だけだった。自殺をもっとも恐れた。私は早い時間の担当にしてもらい、それが終わると、白い家に戻って床についた。だが、目は冴えて眠れなかった。
わけの分からないことばかりだ。縄の両端で首を括る。それに何の意味があるのか？ 三つ児とペアで人を殺す。それに何の意味があるのか？ ぼんやりした頭には、重荷でしかない問題だった。考えるとっかかりさえ見つからず、途方に暮れるうちに、ようやく眠りについたようだった。
翌朝は寝坊した。目が覚めて、枕もとの携帯電話を開くと、十時をすぎていた。数時間はぐっすり眠った勘定だが、身体も頭も芯から重かった。胃の奥にも、錘のようなものを感じ、胃がもたれるというのは、こういうことかと思った。起き上がり、窓と雨戸を開くと、空が明るさをいくぶんか取り戻し、雨が小降りになっていた。それに元気づけられて、唯一濡れていない服である、ブラウスとスーツを着た。スーツはパンツで、黒ではないが、チャコールグレイの深めの色なので、それほど場違いにならないだろう。ただ、赤のゴム長とは合わない。リヴィングに出ても人の気配がなかった。離れで寝ていたのは、私だけだったらしい。
母屋の広間では、由美子さんが、正座したまま柱にもたれて眠っていた。彦島さんも横になって眠りこけていた。線香の火が尽きそうになっていたので、新しいのを点した。彦島の奥さんが台所からやって来て、朝食をどうするか訊ねた。私はいらないと言った。私は母屋を出た。雨は弱まっていたが、傘がいらないほどではない。スーツの上からヤッケを着ているので、少し蒸し暑かった。私は弟子待の店に向かった。
昨日と同じように、坂道はぬかるんでいた。一歩ずつ慎重に歩いた。ようやく堰に出て、その上の土橋を渡り、中の道に出た。その瞬間、ぴたりと雨が止んだ。あまりに突然だったので、私は、最初、音が消えたことしか気づかなかった。傘をたたく雨の音が消えたのだ。すぐに、雨が止んだのだと分かった。私は手にした傘をさげてみた。雨は落ちていない。こんなことがあるのだろうか。あれだけ降り続いた雨が、一瞬にして止んだのだ。水嵩の増えた川の濁流の音は、相変わらず凄まじい。しかし、もはや、聞こえる音は、それだけだった。耳をすましても、川の音以外は聞こえない。人の気配のない、ぬかるんだ道が前途に広がっている。傘を畳み、あらためて見晴らすと、思いのほか谷の空間は広く、空気は澄んでいる。それでも、小の峰には薄く霧がかかり、安寧山の頂きは雲に隠れていた。弟子待の店目指して歩き出そうとしたとき、くぐもった機械音がしたように思った。私の前方のようだった。注意をやるのと、視界に自動車が入るのが同時だった。谷を登ってくる車がある。この村で見た車は、撃たれた渡辺さんを運んだ軽トラックだけだが、目の前の車はボックス車だった。飛沫を跳ね上げて、よたよた走っている。私はつりこまれるようにして、自動車の方へ歩いて行った。近づいて来たのは、かなり使いこまれた四輪駆動車だった。車とすれ違いそうになると、自然と歩みがのろくなった。脇に避けてやり過ごそうとした。跳ねでもかけられたら、スーツが台無しだ。ところが、四駆は私の手前で急ブレーキをかけた。泥水がはじける。私は道の端に跳んでよけた。車が止まると、助手席から、弟子待が顔を出した。
「初音さん。どこ行くの。よかった。行き違いにならなくて」
「こっちこそ。あなたの店に行くとこ」
「そうなの？ ちょっと、乗って。初音さんにお客さんを連れて来たんだ」
弟子待はそう言って、運転席の方に顔をやって、なにか言った。スペイン語のようだった。私はろくに喋れないが、フィアンセの母国語だ。それがスペイン語だということくらいは分かる。弟子待の開いてくれたドアに回ると、運転席から、白人の男が身を乗り出していた。広い額の上に黒い艶のある毛髪が乗っている。ほっそりしていて、おそらく背も高くはないだろう。身体つきの割には低い声だ。シャツの上から、やたらとポケットのついたベストを着ている。人の良さそうな黒い瞳が見つめていた。
「初音さんですか。私はディオス・マキーナ。セバスティアン・フェンテスの友人です。彼に頼まれて、やって来ました」
驚くほどなめらかな日本語で言った。弟子待は唖然としている。
「なんだ、日本語話せるんだ」
「はい。でも、あなたのスペイン語なら、スペイン語で話す方が、適切でしょう」
私は驚いたまま、後部座席に乗り込んだ。乗り際に弟子待が囁いた。
「フェンテスって誰？」
「私のフィアンセ」
弟子待は再度唖然とした。
ログインしてコメントを確認・投稿する