【回答】
そもそもは13世紀,ヨハヒムスタールにおいて銀鉱が発見されたことに始まる.[5]
16世紀には,神聖ローマ帝国マクシミリアン2世が,ヨアヒムスタール Joachimsthal の鉱山開発を命じた.
以来,同鉱山では銀鉱石の採掘が行われていたが,その過程で見つかる,銀とは異なる輝く黒い鉱物の存在が知られており,それは「ピッチブレンド(pech blende)」と呼ばれていた.[1]
これはまたの名を「瀝青ウラン鉱」あるいは「閃ウラン鉱」といい,黒い酸化ウランUO2の上に,黄色い「ベクレル石 Ca(UO2)・ 2(PO4)2・10〜12H2O」が乗った鉱石のことである.[1]
鉱山町の人々は,関節炎を治療するため,鉱山からの副産物である黄色の粉(酸化ウラン)を,彼らの衣類のポケットに縫い込んだ.[2]
粉に含まれるラドンが,病気に効いたからだ.[2]
1548年にC. Bruschiusは、
「この地域では、人々は非常に年をとっても、ほとんど病気にかかっておらず、また彼らが何か病気になったとしても、とても速く回復する」
と記している.[2]
反面,鉱夫の健康被害はあったようだが.
1789年,すなわちフランス革命勃発の年,ドイツ人化学者クラプロート(Martin Klaproth)は,ピッチブレンドから新しい元素を抽出し,これにウラン(Uran)と名付けた.[1]
1781年に天王星(ウラヌス uranus)を発見したドイツ人ハーシェル(William Herschel)に敬意を表しての命名であった.[1]
第二次大戦前,ドイツによるチェコスロヴァキア併合が行われると,ヨハヒムスタール鉱山もドイツ領となり,ここから産出されたウランを研究していたドイツ人科学者オットー・ハーンが,1938年にウランの核分裂を発見する.[1]
同鉱山のウランは第二次大戦中,ナチスによる原爆研究のために用いられる.
彼らが原爆開発に成功しなかったことは,歴史的に見れば僥倖であったろう.
さて,第二次大戦後,旧チェコスロバキアでは1946年からウラン生産が始まる.[3]
もっとも,同国自身が消費するためではない.
1946年から1991年12月のソ連崩壊までの間,チェコスロバキアで生産されたウランはすべて旧ソ連に輸出され,旧ソ連の核開発及び原子力発電所用核燃料として使用された.[3]
ウランは最初に ヤーヒモフ Jachymov鉱山とHorni Slavkov鉱山で生産された.[3]
ヤーヒモフこそは,ヨアヒムスタールがその名を改めたものであった.
しかし,どちらも1960年代半ばに操業を終了.[3]
主要な鉱脈型鉱床であるPribramは,1950年から1991年まで操業した.[3]
1960〜1990年まで年間2,500〜3,000トンU(ウラン,以下同じ)生産されていたが,生産量は徐々に減少して,2009年には255トンU.[3]
チェコの既知ウラン資源の主要部分は23鉱床に存在しているが,そのうち20鉱床は終掘または閉鎖となっている.[3]
現存する鉱床のうち,採掘中なのは1ヵ所(Rozna)のみという.[3]
国営企業の民営化,非採算鉱山の閉山,環境問題の解決を図るための政策がとられた結果,国際競争力がないと判断されて金属鉱山が閉山していった結果である.[4]
現在では,ウラン鉱山が原因となっている地下水の汚染が顕著となっており,今後のこれらの環境汚染をどう解決するかが重要な要素となっている.
たとえば,プラハの北約100kmに位置するストラス鉱山は,チェコの4大ウラン鉱山の一つであったが,同鉱山は,地下300mに賦存する白亜紀の砂岩層中の堆積性鉱床で,生産の約半分にあたる1万1千トンがインプレスリーチングによって回収された.[4]
このために約4百万トンの硫酸,その他の抽出材が使われ,現在も地層中に残留する抽出液が,周辺の飲料用地下水を汚染している.また,廃石堆積場には約1100トンのウランがあり,今後の管理などが問題となっている.[4]
[1]
http://uranglass.gooside.com/UranHistory/UranHistory.htm
[2]
http://ameblo.jp/kougennbyou/entry-11967462966.html
[3]
http://www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail.php?Title_No=14-06-07-01
[4]
http://mric.jogmec.go.jp/public/current/96-04.htm
[5]
http://members.jcom.home.ne.jp/hide.yoshimoto/kremnitz.html
ログインしてコメントを確認・投稿する