場内が余韻にひたる中、私はすぐにS氏と階段を降りて東京キネマ倶楽部を後にしました。S氏は藤野さんソロには行かないとのことでしたので、S氏とも別れ、かねて駅すぱあとでシミュレートしていたとおり、まずは神田まで南下して中央線に乗り換えます。土曜日のこととて快速は西荻窪には停まらず、荻窪で各駅停車に乗り換えたのだったと思います。
プログレナイトが2時間くらいで終演したなら、ちょうど前半と後半の休憩時間に到着できて入場しやすいのではないかと願っていましたが、そううまくはいかずにプログレナイトはたっぷり2時間半。鶯谷を出発したのは20時半頃で、音や金時に着いた時には21時をかなり回っていたのではないかと思います。
地下に降りてドアの前に立つと、やはり既に後半が始まったとみえて、バトルのような藤野さんと壷井さんの演奏が聞こえてきました。
それがマナーかと思って演奏中の曲が終わるのをドアの前で立って待っていたところ、少し遅れて私同様に鶯谷から来た客が降りてきて、私を横目でチラと見ると構わず入っていくではありませんか。どうせお騒がせするなら一度にと私も続きました。
この方はzabadakや藤野さん界隈でよくお見かけした方ですが、この日もれ聞こえたやり取りから、かねてお名前だけは承知していた某団体職員の某氏であるらしいことがわかりました。駅すぱあとでのシミュレーションは正しかったようで、私の方が先に到着しましたが、ドアの前で待っていた時間でアドバンテージはなくなってしまったようです。
曲が終わるまではドアの近くで立っていて、終わったところで奥へ進みました。
藤野さんからは、いよっ!プログレナイト帰り!というように二人とも図星を刺されました(東京時代からのライブ会場系知人のCHさんからは、終演後に最初から来なくちゃだめじゃんなどとも言われました。)。
某氏がプログレナイトの方に行かれるというのは藤野さんはかねて御承知だったようで、共に現れたことから私もプログレナイト帰りと思われたようですが、上記のように到着の時間差はけっこうあったのです。
客席はゆかりの方々で盛況でしたが、皆さんが場所を空けて椅子を追加してくださり、条件よく鑑賞できました。
後ほど知ったセットリストによると、前半が純然たる藤野さんソロ、後半が壷井さんをゲストに迎えてのデュオとの構成だったとのことで、おそらくはキルシェのサポートの頃からと思われる長いつきあいの壷井さんとは、太田さんのお母様の急逝によるオオフジツボ東北ツアー中の急遽のフジツボはありましたが、それを除けば実に初めてとのことなのでした。
前半は、「きれいな水の流れるところ」、「丘の上の小さな家」、「黒い森」、Dreaming、「秋の光」、「鳴りやまぬ記憶」、Screenplay・??3、Yuka’s・favorite・??1というラインナップだったそうで、北海道プチソロツアーでも披露された、あらさんの「雪の日」にインスパイアされたという、越後湯沢の藤野さんの田舎を描いた曲や、安房直子さんの朗読のために作られた曲などがこの日も含まれていたようです。
後半が壷井さんとのduo。これまた北海道でも藤野さんがソロで披露されたことのある、壷井さんがオオフジツボのために作った「遠すぎた星」、The hangover quadrille、First Greetingと続いたそうで、この辺りで我々が入場したと思われます。
その後吉良さんとのデュオでも定番となるゴードン・ダンカンのThe belly dancer、L'Elefante Bianco(白い象)、風と土のカノン、鮫(Escualo)。
アンコールが藤野さんの「宵蛍」でした。オオフジツボのほか、リベラシエロでのレパートリーにもなっています。2013年夏に八戸で初めて聴いたのが思い出深いです。
後半だけしか聴くことはできませんでしたが、壷井さんと好きな曲を演りたいように演る自由闊達な感じは、かつて音や金時で一度だけ観たアンジョンに共通する味わいをちょっと感じさせました。
プログレナイト帰りの我々が入っていったせいか、プログレの話題となり、壷井さんが、日本のプログレは城とか人形を扱うなどとおっしゃった時(そういえば『ノイの城』などというアルバムタイトルが浮かびます。)、藤野さんは、姫路城?などと絶妙のボケをかましてくださり、壷井さんにさんざん突っ込まれて、場内は笑いに包まれたことでした。
様々なユニットで活躍中の壷井さんは、告知によると7月は音金出演5回とのことでした。
藤野さんの方もライブスケジュールの告知をされ、(2014年)7月27日(日)のQuitabライブについて触れられていたと思うのです。
藤野さんの年に2回の音金ソロということで、会場には、藤野さんのアコーディオン仲間の関田さらいさんや、教え子の皆さんも多数お見えのようで、加えてQuitabライブの主役yasukoこと中江川靖子さんもいらしていました。yasukoさんは壷井さんにもゆかりのある方です。
告知の時にも、今日も来ているらしいんですけどなどと、客席のyasukoさんを意識しての御発言をされていました。藤野さんが日にちか曜日を間違えて、yasukoさんが「〜日だよ!」と客席から訂正する場面がありました。
感慨がありました。yasukoさんと最後にお会いしたのは2009年2月20日(金)、府中でのハンドリオンのライブにゲストでお出になっていた時でした。この日は私が4月に北海道に転勤になることがわかってからの初めてのライブ鑑賞で、坂上さんの2ndソロを購入したり(現在はリマスター盤が出ています。)、じょんさんに初めてお声かけしたところ、笑顔でまた来てくださいとおっしゃってくださって余計に寂しさが募ったりしたのもその時でした。
その1年ほど前(2008年春)にQuitabライブに行ったことがあり、その時にyasukoさんと二言、三言だけですがお話しさせていただいたり、後日通販でCD-Rをお送りいただいたりということがありました。会場の奇聞屋に巽孝之先生がいらしているのに驚き、その後巽先生の著書にお名前が書かれているのを目にしたりもしていましたから、府中ではその辺りの話もさせていただいたと思います。
御主人様なのでしょうか、Quitabのライブではピアノを弾かれる中江川謙さんは、府中の時も御一緒にいらしていた記憶です。
温かく接してくださるとともに、当日は関西に転勤になる藤野さんファンの方もいらしていたようで、yasukoさんはその日のハンドリオンのライブについてお書きになったブログで、春に遠方へ旅立つお客が複数いたことについて触れてくださり、メロディが主音に帰ってくるように、異なる旋律が重なり会うように、いつかまた必ず出逢えると信じています、その時まで、お互い元気で旅を続けましょうとお書きくださったのでした。
そうは言っても、もうお会いすることはないのかもしれないけれど、そう書いてくださったこと自体がありがたい…そう思っていたyasukoさんを再びお見かけしたのでした。
覚えていらっしゃらないと思ってお声かけもしませんでしたので、今回はお会いしたとは言えないかもしれませんが、「メロディが主音に帰ってくるように」またお見かけできたyasukoさんがお帰りになるのをしみじみと見送ったことでした。
会計時には音金ママさんからも今度はゆっくりとねなどと言われてしまいました。
目的のひとつだったクリアファイル等の藤野さんグッズやリベラシエロのアルバムなども無事に購入することができました。
壷井さんはtrinite北海道ツアーの初日の函館に足を運んだあたりから私のことを覚えてくださったようで、プログレナイトはどこの会場だったのか、鶯谷ですなどといったやりとりをさせていただきました。豪華な差し入れの数々を残った面々では食べきれないということで、助けると思って食べてくれなどと誘ってもくださいました。
そこまで言われてはと差し入れの洋菓子を少々食させていただいたのですが、それを知らない周りの方々からは途中入場なのに図々しい奴だと思われたかもしれません。翌日の大塚でしたか、藤野さんからもそんなふうに受け取れなくもないお言葉がありました。
北海道、東北などのオオフジツボや藤野さん現場にまでいらっしゃる熱心なファンの木更津氏はこの日もいらしていて、最後の方まで残って差し入れも一緒に食していました。その時間から木更津まで帰るのは大変なのではないかと思っていたら、諦めて泊まることにしたそうでした。この日の曲目の「鮫」のことを「鯨」と口にしたのはギャグかと思ったら素で間違えていたようです。
木更津氏は壷井さんやバスキングジャパンの戸田さんと、少し後に予定されていたオオフジツボのバスキングについてお話しされていたのですが、その様子からはまだ足を運んだことがないコピス前バスキングに今度は行くつもりでいろいろお尋ねされていたようです。
私の方は宿はどこかと問われて半蔵門と答えたつもりが、滑舌が悪かったらしく、壷井さんからは何?函館?などと聞き返され、音金ママさんも半ズボンて聞こえたなどと言われてしまったなどというつまらぬことを覚えています。
藤野さんからは私の明日の行動について、立ち見だっけ?などと言われ、シェイリーさんとのFacebook上でのやり取りを御覧になって、私が大塚All in funに姿を現しそうなことを承知されていたらしいことを知りました。
これに対し、バスキングジャパンの戸田さんは、藤野さんに問われ、明日はハモニカクリームズが今シーズン唯一の都内なので…などとハモニカクリームズの方に行かれることを表明されていたと思います。
お客の中では最後の方まで残り、JRを中央線から山手線を乗り継いで渋谷にたどり着いた時は半蔵門線が終発の青山一丁目止まりになってしまっていました。
青山一丁目から半蔵門まで東京の7月の夜を歩いたところ文字どおり汗だくになってしまったことを覚えています。
音や金時で遅くなって青山一丁目から半蔵門の宿まで歩くというのはそれまでもありましたが、その後の経験により学習したところでは、半蔵門線にこだわらず荻窪で丸ノ内線に乗り換えて赤坂見附まで行くなりする方がダイヤ的にも体力的にもまだ楽だったかもしれません。
さて、翌日はいよいよ中藤ハンドリオンです。
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