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2015年03月07日23:10

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6/15 のや

前年(2013年)はザッハトルテを堪能し、また、本祭にJJFが御出演することを知って感動したはこだて国際民俗芸術祭オープニングライブでしたが、今回(2014年)は、吉良さんや林太郎さんら御来道の日程と重なったため、残念ながら両日とも御縁がないものと思っていたのです。

ところが道央を襲った大雨による鉄路の遮断で道南から移動することができず、富良野の野良窯に行けなくなったかわり、瓢箪から駒で(2014年)6月14日(土)の一夜だけ、コロリダス、カンラン、ショピンといった面々を観覧することができたのでした。

14日(土)のバスの便が満席であることを確認した際、鉄路が復旧しない場合に備えて15日(日)朝のバスを押さえてありました。結果的には15日(日)は朝からJRは動きましたが、コンビニで予約したバスはキャンセルや払い戻しの手続が面倒なので、そのまま行ってみることにしました。

のやでの打ち上げに出たいがために、札幌からの復路を深夜23時55分発早朝5時5分着の夜行バスで帰ったことは何度かありますが、普通の時間帯の往路でバスを利用するのは以前の道南勤務を含めて全く初めてのことでした。今回ものやでの打ち上げ出席のために帰りは深夜バスを手配してありましたから、往復バスによる日帰りという厳しい日程ではあります。

復路の深夜バスでは中央バス、北都交通、道南バス共同運行の高速はこだて号しか乗ったことがありませんが、この朝は北海道バスのニュースター号を利用した記憶です。
7時10分函館駅前ターミナル発に間に合わせるべく、早朝から自転車で住まいを出発して駅の駐輪場に駐めたのだったと思います。

往路では初めて利用するバスは、途中パーキングエリアで休憩があったり、高速を降りた後は恵庭方面から徐々に札幌市街地に近づくという鉄路とは異なる経路が新鮮でした。
酔うので以前はバスでは本を読まないようにしていたのですが、都市間高速バスは条件がいいためか、2012年秋の留萌行きの時もそうでしたし、この時もけっこう読書がはかどりました。

5時間少々を経て東1丁目のターミナルで降りた時にはぽつぽつと雨が降っていた記憶です。

前日の14日(土)は、私が行けないならばとS氏も野良窯行きを取り止めていたのですが、S氏はのやにも行かずこの日は私単独だったような気がします。ちょっと記憶が怪しくなってしまいました。

のやでは例年どおり吉田夫妻が受付や物販を担当しておられました。前日の野良窯に引き続いてだったと思われます。例によって予約していなかった私は、予約客が入場を終えた後に入場したのですが、それでもかなり好条件の席に着くことができました。

小樽にも留萌にも豊富にも富良野にも行けなかった私には、菅野朝子さんと小峰公子さんとはこのツアーで初めてまみえる機会でした。覚えている曲目を記します。

「夜の彷徨」はまだ上野さんがおられたごく初期の頃の曲ですが、デモでは公子さんが歌っていたという初めて聞くお話がありました。この曲は北海道御出身の初期メンバー松田克志さん作詞です。

karakの「老人と海」もありました。「老人と海」が収録されているkarakの1stアルバム「silent days」は、核戦争後の世界がアルバムのコンセプトだったということです。
「silent days」は1991年発売ですが、その年のうちに買って聴いています。
私がzabadakを自覚的に好きになって本格的に聴き始めたのがその頃で、そのつながりでkarakにも手が伸びたのだったと思います。それ以来、ほぼ同じ頃からzabadakもkarakもずっと聴いていることになります。その頃には吉良さんと小峰公子とでzabadakになるとは想像しなかったのですが。

「ガラスの森」や「砂煙りのまち」といった、のれん分け以前の名曲の数々もありました。
特に「砂煙りのまち」を生で聴くのはこの時が初めてだったかもしれません。上野さんがおられた頃には私がリアルタイムでは聴くことのなかったこれらの名曲については、東京のプログレナイトでの強力な布陣による再現を聴いたことはありましたが、この4人で北海道で聴くことができるとはという感慨がありました。

「ガラスの森」で、口でLai Lai言いながら同時に手拍子を打つ難しさを味わい始めたのはこの時だったかもしれません。

この日はTin waltzもあったような気がしますし、イントロに菅野朝子さんのヴァイオリンによる印象的なフレーズが付加された「夢を見る方法」もありました。
アンコールは「遠い音楽」でした。

この日、受付では、前日に野良窯の大槻夫妻がのやのお客に配ってくださいと託してくださったというラベンダーの小さな花束を吉田夫妻がお客に配っておられました。

すっかりライブ会場系知人となったK村氏は東京でのライブでも菅野朝子さんとお話されたことがあったようで、この日の終演後にも親しくお話され、ラベンダーキャンディーをもらったりしていたようでした。

菅野さんが近くにいた私にまでラベンダーキャンディーをくださったので、この時が機会かと思い、1年越しで気になっていた森下唯さんのお話をしてみました。
プロフィールを拝見したのですが、菅野さんは森下唯さんと共演されたことがあるんですねと。

お父様の作家森下一仁さんのことが好きすぎて御自宅を訪問してしまったことがあり、その時、眼鏡の小学生だった森下唯さんもいらっしゃったなどと申し上げると、調布のあのお宅?などという御反応でしたし、ブログも読んでいるの?とか、今は御著書がなかなか手に入らなくてとか、お父さんはいい人だけど唯さんは理屈っぽいなどと、唯さんだけではなく、お父様の森下一仁さんのこともよく御承知のようなのでした。

つながってるんだねーなどと、森下さん父子の話題を出したとたん、親しみをこめてくださったということならいいのですが、急にタメ口のようになって若干違和感も感じてしまいました。

このツアーでも林太郎さんはライナー・チムニクの「クレーン男」に因んだ曲を演奏されていたと思うのですが、ツアーの少し後に、IHIというから旧石川島播磨でしょうか、星新一賞の協賛企業である関係からか、IHIサイト内の空想ラボラトリーという著名SF作家のショートショートが多数掲載されたコーナーがあり、そこに森下一仁さんが発表された新ショートショートに何とライナー・チムニク「クレーン男」が出てくるのを読み、不思議な御縁を感じたのでした。

終演後のことで覚えているのは、それまでサインに使っていたものでしょうか、キャップがあると思って吉良さんがマッキー極細の極細の方で力をこめて手のひらを突いてしまい、思い切り刺さってしまったことです。大きな声で痛がっておられましたし、血がにじんでいました。楽器の使い手であられるだけに心配しましたが、北海道からお帰りになった後も通常どおりライブをこなしておられたようなので安心しました。

例によって図々しくも会場に残って打ち上げにも出席したのですが、吉田夫妻は、エミさんが5時起きでしたか、翌日早朝からお仕事とのことで、その旨を御挨拶されてからお帰りになっていました。それもあってか、打ち上げはいつもよりも早めに終わり、宿に向かう皆さんをお見送りしてから中央バスターミナルに向かっても23時55分の出発にゆとりをもって間に合った記憶です。

小峰公子さんが北海道にいらっしゃったのは、2007年夏以来だったのではないかと思います。そのせいか、打ち上げに残ったような熱心なファンの方々のこともあまり御存知なかったようで、帰りのお車に乗り込む前に我々に自己紹介を求めてくださいました。K村です、M浦です、K田です、などと順番に名乗っていき、私が最後だったと思うのですが、吉良さんが道南さん、というように口添えしてくださったのでした。その名前、自分では特に気に入っているわけではないので複雑なのですが。

東京時代の最後の頃に小峰公子さんのブログに何度かコメントさせていただく機会があり、東京を離れた年2009年6月の蛇腹六姉妹ライブの頃など道南という名前だけは覚えてくださっていた時期もあったと思うのですが、今はもう私のことは全く御存知ではないようでした。

夜行バスで早朝5時に道南に帰り着いた後は特に苦しかった記憶もないので、普通に仕事ができたのではないかと思います。
それからの日々は、6月末第3回となるニセコのカフェフェスも今年は初めて行かず、トシさんが同行されないことになったたゆたう御来道の時も無理はしませんでしたので、次のライブは7月、またしてもzabadak、今度は東京でのプログレナイトとなりますが、藤野さんソロに中藤ハンドリオンなど他にもいろいろとエピソードがあります。
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