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2015年02月23日14:58

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機会は貴重だが:2/20 モナリザ

American Symphony Orchestra
Leon Botstein, Conductor
Bard Festival Chorale
Michael Anthony McGee, Bass-Baritone (Francesco)
Petra Maria Schnitzer, Soprano (Mona Fiordalisa)
Paul McNamara, Tenor (Giovanni)
Justin Hopkins, Bass-Baritone (Pietro)
Robert Chafin, Tenor (Arrigo)
John Easterlin, Tenor (Alessio)
Christopher Burchett, Baritone (Sandro)
Michael Scarcelle, Bass-Baritone (Masolino)
Ilana Davidson, Soprano (Mona Ginevra)
Lucy Fitz Gibbon, Soprano (Dianora)
Katherine Maysek, Mezzo-Soprano (Piccarda)
Program
VON SCHILLINGS Mona Lisa

ルクレティアの凌辱との事実上の二択の末こっちを。ルクレティアが予習してもいまいちピンとこなかったのと(以前聴いたときはそんなことなかった気がするが)、レア度はこちらの方が高いこと、そして結局こちらしか時間的に間に合わなかったことが理由(リンカーンセンターはちょっと遠い…)。

ご存じベルリン国立歌劇場監督、フルトヴェングラーの師、帝国音楽院総裁。ナチスの音楽文化政策が音楽文化の発展に有害であったことは言うまでもないが(マーラーもシェーンベルクもシュレーカーも禁止するなど論外!)、そこに協力した人の作品は当然無罪。作品として優れているのであれば積極的に演奏されてしかるべき。(そういや何かにつけて煩い当地の政治団体も、この上演はスルーだったな。)

が、20時ちょっとすぎ開演、序幕と第一幕が終わったのが21時45分、休憩を挟んで第二幕とエピローグが終わったのが22時40分という構成、しかもその圧倒的に長い第一幕のほとんどが背景説明に費やされるという展開が、この作品が帝国音楽院総裁後任の(で正しいのか?)シュトラウスと違い戦後も演奏されなかったことを物語る。音楽劇で重要なのは刈り込みとバランス。ドラマの感覚が歴史に耐えうるレベルではない。
ただ、全て退屈かというと勿論そんなことはなく、ドラマの展開自体はヴェリズモ的な面白さがあり(問題はペース配分、全体の構成)、音楽もシュレーカーからマスカーニに至る当時の流行を如実に反映した、心地よい瞬間が多々。オーケストラの前奏・間奏とかは随所に光るところがあるんだが。

演奏も、もちろんこういう作品をひたすら演奏してくれるASO及びボッツスタインには感謝の一言だが、やっぱり先生の棒、音楽学教授の棒。作品の音符を的確に音に置換はするが、ドラマの沸騰は求むべくもない。PMシュニッツアー(久しぶりだ!)のコロコロ転がるソプラノの声はモナリザの怨念・執念を表現するにはミスキャスト、マクナマラとマギーはこんなもんだろうが、もう少し声の力が欲しいと言ったら欲しい。
ただ、ここで文句は言うべきではないだろう。腐ってもバイロイトで主役級を歌った歌手を招いてこの作品を演奏する体力と気概のある在京オケが今どこにあるのか。(数年前までは、東響と読響にはそういう博打心があったんですがねえ…。ルプパだのマッチ売りだのエルニーニョだのフラワリングツリーだのを上演してた2000年代の東響の業績はもっと称えられるべきだと思う。是非音楽監督の棒でグラン・マカブルを…)

ASOは前回はヒンデミットのオペラ、今回がこれ、そして次回はいよいよブル00。行けるかどうかは引き続き綱渡りだが、メインがドヴォ1ということで、はっきり言って曲目・演奏両面で退屈することが明らかであるにも関わらず、どうしても行きたい気にさせられる。まだ来シーズンは発表されていないが、またどんな狂ったプログラムを用意してくれているんだろうか。
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