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2015年02月07日23:22

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もじたま日記・1635日のツヅキ

 1635日目のつづき
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 それにしても、「旧約聖書」は「神に対する裏切りの物語」でもあるな・・・「神の奇跡」を眼前にしてさえも「イスラエル・ユダヤの一神」を信じきれない、あるいは背信と不満を有する「一部ユダヤ人」の存在理由は何か?・・・特に列王記上(第十一章)の「ソロモン王晩年」からはじまる「一神に対する冒涜と不敬は、ソロモンの異国の愛妾達(妻700人+妾300人)が出身地の神を祭ったことを許し、自分もはまっていったコトである。オンナには甘かったのだ。列王記下の第一六章〜第二一章に記されている「アハブ王」、「マナセ王」、「アモン王」は異教徒の神の偶像さえ、ソロモン王が建てた「イスラエル・ユダヤの一神の神殿」に据えたのだ。
 「ソロモン」は列王記上(第八章・46)で都合のイイコトを「神」に願っている・・・人は罪を犯さない者はいないのです・・・あなたがエジプトから連れ出した(仕業・嗣業の)民であるから、懺悔したら許して欲しい・・・と・・・なるほど、人間の知恵に於いてソロモンは賢い奴だ・・・だが、アヤマレバ、それでイイってモンじゃない・・・「歯」には「歯」、「目」には「目」をか・・・どうやら「神に対する不信と裏切りの物語」ではなく、「人間同士の裏切りの物語」であるな。

 で、「旧約聖書」が正式な「書物」とされたのは紀元70〜90〜100年ころらしいのだ。
 「ルツ記」は「ローマ帝国支配下のキリスト教徒(異民族を含む)」にとっては都合がイイハナシであるのだ。
 ちなみに中国では「許慎」の「説文解字」が撰されたとする年代は紀元100年の後漢、和帝の「永元十二年・庚子」である。「永元」の「永」は「水」の漢字に似ている。「永」は「河川の長さ」を意味している。「永元」は「河川の水源」ではあるな・・・「モーゼ=水の中から救われた者」である。

 そしてキリストが生存していた期間の前後、当時の「ユダヤ人一般(ヤコブ2〜3〜4)」が望んだ「ユダヤの人の子、キリスト自身の思想」とは「イスラエル民族国家」としての「ダビデ・ソロモン」への「地上の王国への回帰運動と、その思想」と、それを実現すべき「指導者=救世主」の登場であった。
 「パウロ」が「ユダヤ人」であったとしても、「キリスト」の思想とは違うのである。もんちろん、現在の「キリスト教」とも違うのだ。「ユダヤ王国滅亡寸前(紀元66〜70年)」での「パウロの思想(紀元58年前後からキリスト教の伝道活動。64年に殉死)」は歴史的状況からみれば「ローマ帝国」との妥協の産物であった。「汝の隣人(ユダヤ)を愛せ」ではなく、「汝の敵(ローマ)を愛せ(憎むな・do not hate・δεν μισοs)」とはまさに歴史的状況が言わさせしめた「戦術的コトバ」であるのに違いない。とするならば「ローマ帝国支配下でのユダヤ=キリスト教」である・・・ローマ帝国支配下での現実ではもはや「一神教民族=ユダヤ民族」をまもれず、「ユダヤ民族維持」のためには、パウロの有する「ローマ市民権」が必要であったのだ。そして生きるためには「敵の愛(慈悲・ローマ法)」を請わざるを得なかった。ならば「パウロの思想」とは、彼の本音は別にして、口先では「律法厳守」を言いながら結果的に当時の「ローマ帝国(多神教・偶像崇拝)支配」を許し、自己保身で妥協していた「パリサイ人」の立場にも重なるだろう。
 だが「ギリシャ文明」を引き継ぐローマ帝国は多神教ではあったが、「ギリシャ都市国家アテネ(アシナ)」と同様、政治権力として、「貴族階級」と「平民階級」の「公平、平等化」を追求した「帝国」であった。植民地人であろうが、属国人であろうが、異人種であろうが「ローマ市民権」を有する者はローマ帝国の法律の下に於いて政治的権利はまもられた・・・?・・・「ローマ市民権」は俗社会での生活規範としての政治的権利であった。「キリスト教」を国教とする(西暦313年・ミラノ勅令)までのローマ帝国は多神教であったが「政教分離」の帝国だったのだ。ユダヤ王国、あるいは属国となった「ユダヤ王国」はモーゼの時代から例外もあるが、基本的には「一神教による政教一致」なのである。
 現代社会、「政教一致」どころではない、「科学、政治、経済、法学、宗教、哲学の人間観念混在一致」である。コトバとして現在的な「論理学=諸学問」は「概念範疇」で出来事、事件、物事、事物を「観念的に区別」しているが、「神」がいようが、いまいが「科学、政治、経済、法学、宗教、哲学」は「現実生活」では「渾然一体」となった「アイマイな状況的なその時、その場のズレタ価値観、あるいは重なった価値観」で生活しているのだ。「宇宙飛行士、ノーベル賞クラスの科学者」でさえ、その「世界観」、「価値観」は喜怒哀楽、苦痛苦難で生きているその存在に於いて「エゴイスト」で「セルフッシュ」である。「人間」にとって「神」さえ存在すればすべての「論理=理屈」は「神」にその責任を転嫁できるのだから・・・「政治的」にも「法律的」にも「人間」は「人間」にその「ルール」に於いても「責任」をとろうとせず、他人に「責任転嫁」する。
 「人間」と「人間」の責任関係は単純である。

 「?殺すな、?騙すな、?盗むな」

 に尽きる。「モーゼの神(思想)」は「人間(同胞隣人)」を「人類(異邦隣人)」に拡大したらとっても「エライ」のである。

 で、宗教的権利ではない「ローマ帝国市民権」を有するユダヤ人、「パウロの戦略」は「ユダヤ人の楯となる非ユダヤ人であるローマ市民の準ユダヤ思想化=キリスト教化」・・・であった?

 ・・・紀元前287年ホルテンシウスによるローマ身分制度の政治的公平化法
 ・・・紀元前90年執政官ルキウス・ユリウス・カエサル提出の法案
    ルビコン河以南のイタリア人すべてにローマ市民権を付与
 ・・・帝政開始(前27年)以後、属州都市の有力者に市民権が与えられた
 ・・・212年、カラカラ帝のアントニヌス勅令
    帝国領土の全自由民に市民権を与えられた

 第一次ユダヤ戦争(66〜70年)
 紀元66年、ユダヤの支配者である元首属吏フロルスがエルサレム神殿の宝庫を強奪。エルサレムでユダヤ人の暴動が発生。フロルスはユダヤ人暴徒を逮捕磔刑。ユダヤ人はこれに反発、ローマ軍と戦闘を開始した。
 ローマ皇帝ネロはウェスパシアヌスをユダヤ討伐総司令官として三個軍団を派遣。67年、ガリラヤを攻撃。ガリラヤのユダヤ反乱軍指揮者はヨセフスであった。ローマの大軍によって反乱軍は投降、降伏。捕虜となったヨセフスは、後に「ユダヤ戦争」を記した人物であった。
 第一次ユダヤ戦争は、74年ローマの司令官フラウィウス・シルウァによるマサダ要塞の陥落で終わった。

 第二次ユダヤ戦争(132〜135年)
 ユダヤ人は、バル・コクバを指導者とし、ローマへの反乱を再度組織化(第2次ユダヤ戦争)したがローマ軍によって壊滅的な敗北、玉砕。その後、ユダヤ人はエルサレムより追放。

 「イエス・キリスト在世」当時の「ユダヤ王国」と「ローマ帝国」の関係は、かっての「中国(清)」と「西欧列強(イギリス・フランス)」、現在の「日本」と「アメリカ」の関係に似ている。パウロのキリスト教伝導時代は紀元58年から64年である。第一次ユダヤ戦争(66〜70年)の勃発がくすぶっている前哨的時代であった。「ローマ帝国主義者」に磔刑にされたユダヤ人キリストはモチロンのこと、パウロも「キリスト幻想」をテコにした「ユダヤ民族主義者」であった?・・・だが、「中国」には「民族主義者(?)の林則徐・孫文・毛沢東」が出現したが、現在の「日本民族を救済」しようとしている「日本民族主義者」はみあたらない。「パリサイ人の律法」とはウラハラに当時の「ユダヤ人」同様、「日本国憲法=律法」なんのその、仏壇も神棚も、時には十字架さえも家に祭り、金権主義的個人主義で「隣人・同胞」からの横財、私的財産追求と蓄財にどっぷりと埋没し、ダレかに尻尾を振っている奴等ばかりである。
 「民族概念」は私の「国家論」の他所で述べたので誤解してもらいたくないが、あえて「民族」と言う明治の御用学者が発明したこのコトバを使って概念規定すれば、

 「民族主義」とは「民族内での無階級的な自由平等」、

 と言うコトである。民族の首長、指導者としては誰彼を問わない「一民族=一国家内の人々」のあらゆる利害の公平主義である。「思想的」には「ナチス(国家社会主義)」も「スターリン(一国社会主義)」も「毛沢東(愛国社会主義)」も、変種の「ユダヤ民族」と同類の「国家(民族)主義」である。最近翻訳発行されたヒトラーの「第二の我が闘争(続・我が闘争・甲成書房・2004年出版)」が参考になるだろう。第一次世界大戦後の帝国主義(金融資本主義)的な時代にあってビスマルクを尊敬し、軍隊を「国家社会主義的共同体」の基盤であると考えていた「ゲルマン民族主義者」が「ゲルマン民族」と「他民族」をどのように捉えていたのか理解できるであろう。
 「民族主義」とは企業からウラでカネをセビる「似非右翼の主義」とは違うのである。
 「国家(民族)社会主義」とは、

 「他民族排除」と「自国民族の領土の確保拡張」であり、
 それを前提に
 「民族主義的プライド(pride)とその自民族内の自由平等」とを実現し、
 その
 「統一された自民族の生命と財産、パン」を確保し、
 「自民族の義務として血の購い」で「他民族」から防衛する

 というコトである。「民族主義」を「文化防衛論」などと言うコトバに丸め込むものとは違うのだ。「ヒトラー」を「我が友」だなんて言われても迷惑だろうに・・・
 「諸階級の諸実体を包含する民族概念」とは被支配階級に対する支配階級の対外的な「政治的概念」であり、「政治的範疇概念」である。
 「国家(民族)主義者」にとっては「国内内部の異端者排除」と「民族イデオロギーの統一」が必要とされるのである。「ユダヤ民族主義」は「一神教とその律法厳守」+「同一血統主義」であった。「律法厳守」とは「民族内の社会公平主義」であった。その「イデオロギー」を厳守しない内部の人民は「異端者」として粛清、排除されるのである。
 「旧約・創世記・第34章」には「ヤコブ」の娘「デナ」が「ヒビ人のハモルの息子シケム」とイイ仲になってた事件を切っ掛けに「ヤコブ」の息子達「シメオン」と「レビ」は妹を陵辱されたと怒ったが、「ハモル」も息子「シケム」も「デナ」を愛していたので「シメオン」と「レビ」達に有利な条件を示して結婚を望んだ。それに対して「シメオン」と「レビ」は「ヒビ人のハモル、シケムの一族の男子」すべてに「割礼」を施したら「デナ」と「シケム」の結婚を許し、「ヒビ人」も「ユダヤ人の一族」とする、と言うコトを条件にした。「ハモル」も「シケル」もその条件に同意し、「一族の男子全員に割礼」をさせたのだ。そして、その三日後に「割礼」の痛みで苦しんでいる「ヒビ人」の男子を襲い皆殺しにし、財産を掠め、子女を虜にした。「ヤコブ」は息子達の所業には恐れおののいたのだが・・・「ヤコブの葛藤」は紛れも無く、人間ソノモノであった。だが、「ユダヤの神」は息子達の立場であった。
 そして、「旧約・ヨシュア記・第七章」には「ユダ族のアカン」が神の罠(ヨシュアの策謀?)によって敵軍に壊滅させらことが記されている。
 戦争では外部の敵対者をワナにはめて虐殺するのは当然であり、内部の敵対者の粛清には敵の軍隊に始末させる、と言うのは常套である。
 そして、旧約のヨシュアは「モーゼの神=戒律=思想」+「血統」を厳守することによっての「侵略戦争の遂行」であった。
 「血統主義」・・・不思議なことに「寄留者=ユダヤ人内部の異民族」に対する「律法(出エジプト記・第23章)」があるのだが・・・彼等との婚姻関係は無かったハズがない・・・そして、まもれない「血統」は旧約聖書に散らばっている。異民族、異教徒の女性達から生まれ出た「ユダヤ人混血」の子孫はゴマンといるだろう。もちろん、異民族、異教徒の子供を産んだ「ユダヤ人女性達」も・・・?

 アレクサンダー大王の帝国思想(異民族融和?)、シーザーの「ローマ市民権の思想」を省けば、結果的にはナポレオン、ヒトラー、スターリン、ルーズベルト、チャーチル、毛沢東、東条英機は「国家の支配階級」をまもるための「国家(民族)主義」であった。国家官僚的自己権力に対立、反抗する政治家、軍人、民間人を粛清したのは当然の帰結である。そして内部の粛清は敵の軍隊に始末させる、と言うコトも常套であった。すぐれた対外戦争の戦略、戦術家には「共同体内部の大義名分の統一イデオロギー=幻想」が必要なのだ。
 で、「民族主義的プライド(pride)」とは何か・・・「歴史的家系・血統」に対するイイ意味での自尊心(長所に対する確信的信念)、ワルイ意味での自惚れ(利己優先)・・・「民族主義的プライド(pride)」とは「自民族の優位優先、他民族の蔑視差別、排外」である。
 だが、「似非民族主義者」の「民族(国民)」とは「国家内階級関係を隠蔽」した範疇概念であり、対外的にはその隠蔽保持によって「他国家国民・各人種」を階級ランクづけするための「差別概念」であるのだ。そして「民族主義=一民族内での法的公平」とは現在の資本主義的経済流通の国家間の諸関係に於いては成り立たないモノなのだ。「民族主義=純粋血統主義」などは「範疇論」としてはそもそも成り立たないのである。人種の「血液」を調べさせた合理的精神の「ヒトラー」はそれに気づいて「言語学的なインド・ヨーロピアン語族」としての「民族」をチラチラさせざるを得なかった。
 そもそも、「民族概念」などと言うものは日本人の御用学者が発明し、中国人も借用してしまった「漢字概念」なのだ。「国家(nation)」は「民族」で無いのは当然である。「人種(race)」も「民族」ではないのは自明である。その中国人は、現今もっぱら「愛国国家主義=漢民族主義」である。最近は「民族=文化的同一の人々の集合体(ライトハウス英和辞典)」であるなどと概念規定しようとしている。じゃあ、「文化的同一」とはナンぞや?・・・その根本は「言語=言語観念」である。

 「民族概念」とは「?血統、?言語、?領土」の「同一性の人種」として発明され、概念規定されたモノなのだ。

 「民族」とは、本来が日本人がつくり出した「概念」で、唯一「日本人」が「幻想=思想」として「日本帝国国民=民族」として理解させられたモノであったのだ。純粋「ユダヤ人」ならばその思想を盗むなッ、と抗議するに違いない。その日本人も現在「概念規定」をアイマイにしている理由は「明治速成日本民族」が戦争に負けたからである。

 「諸階級を包含する民族」はその実体的階級関係を解体し、普遍的地球の地域住民としての「対等、公平な人間諸関係を前提にした地球人」として再組織せねばならない。
 もちろん、「民族(国家)主義」と、「人類主義的=国際主義的」な「無階級的社会平等(公平)主義」とは全く違うのだ。
 「民族の解体」は「国家の解体」であり、「階級関係の解体」である。「階級関係の解体」は「国家の解体」であり、「民族の解体」なのだ。
 もちろん、「一文化の解体」ではない。人間生活でのあらゆる事象、事件、事物は「コトバ」として「観念化」される。そして「観念化=思想化」されたモノは「表現、造形、創造化」されるのだ。その逆も当然ある。そして「音声コトバ」も視覚によって理解されるモノとして「文字化、記号化」として表現されるのである。「文化」とは「文字化=記録化」されたあらゆる「知識」である。その「知識」を「生活に具体化」したモノである。そして「文化=文字コトバ=文字言語観念に化されられるモノ」とは必然的に「他の文化」と接した時点から「融和吸収、相互依存関係」にならざるを得ないのは、「異言語、国語、古語辞典、科学辞典などの存在理由」と同じである。未知なモノを理解するには「コトバ」での意味が必要だからである。既知なモノを他人に理解させるにも「コトバ」での意味が必要だからだ。コトバの原点は人間生活での関係性の相互情報の相互理解である。情報伝達として人間による「音声記憶(暗誦・口伝)」よりも、限界はあるが「文字化(記録保存)」された方が有利である。限界とは読み手の「識字」の学習範囲と、意味理解のレベルである。そして、書き手の意図と意味内容は「読めばワカル」と言ったモノではない。読み手に取って理屈では割り切れない書き手の「価値観」、情緒、感情、妄想、空想などの「抽象化」された「文字」がワンサカ散りばめられているモノも多いからだ。「共通言語の国語」で記録された「憲法」ですら理解、誤解、曲解、ワッカラナぁ〜イであるのだから「異言語」ならばなおさらである。
 意図的に読み手が「だまされているコト」を前提に読むモノは「虚構としての小説・モノガタリ」である。読み手に取っては「事実」であろうが、「事実」でなかろうが、「虚実混在」であろうがイイのだ。如何なる形で理解しても、読み手の自由である。だが、「ウソ」を「事実」と考えよ、と強制的に押し付けられたらドウするか。
 国家次元で「一文化の言語、言語観念」を他国家に強制し、するのは「膨脹しようとする国家か、膨脹した国家」である。日本はコレを戦前やったのだ。しかも強制されなくても状況的に国家間での「他文化(言語観念)」を吸収せざるを得ないのは「自国家の支配階級維持」のタメでもある。「国家」であろうが、「共同体」であろうが、「家族」であろうがその生活基盤は「衣食住」を確保するタメの居住地域での諸生産、諸交換と、他地域との交易である。「共通言語」がなければ「交易」は成り立たない。その「共通言語」とは「交換比率」としての「数字=価格単位=貨幣単位」である。
 かって、「ギリシャ語」はローマ帝国支配下の「国際言語」であり、当時の支配階級の「宮廷言語」であった。「軍事暴力での領土を拡張支配」をしたものの、いまだ「先端の知識」は「ギリシャ言語」にあったからだ。それ以前は「エジプト言語」にあったハズだ。オスマントルコ帝国は「ギリシャ語」から「知識」を得た。近世のヨーロッパ諸国はその「アラビア言語」から「知識」を得た。中国をみれば中国領土に侵略、侵入して居座った「北方種族」は「漢字言語」に埋没してしまった。現在的な国際語は「英語・米語」である。基本的に「知識」は「言語観念=文字観念」である。国際的な科学、政治、経済、技術など、その最先端の「言語知識=情報知識」を理解しなければ国家間での「国家支配階級のシステム」は弱体するか、崩壊するのは自明である。そして、世界は今現在、「コンピュータ言語」を習得しなければならない状況にある・・・あらゆる「知識」は国家、階級を超えて人類規模で「普遍化」するだろう・・・が・・・人類間の自由、平等、公平そのものを保障するモノではない。
 「文化」は「知識」を押し上げるが、「暴力」と「自然災害」には如何ともし難い。しかも「文明」は「国家支配階級の暴力」に加担スルのだ。

 現在も過去も、「階級国家=民族国家」を支えているモノは「?殺すな、?騙すな、?盗むな」ではなく、「?盗む」ために、「?騙せ」、「?殺せ」である。もちろん、他民族に対してもである。国内的にも対外的にも「盗みあっている奴」は「似非民族主義」なのだ。
 「ユダヤ・イスラエル国家の律法の一」とは、「隣人(家族同胞)」から「利子(手数料も含む?)」を取ってはならない、とするが、「他国民(他民族・他人種・偶像崇拝の人々)」から「利子(手数料も含む?)」を搾取するのはオッケイとしているのだ。
 現在のあらゆる「国家」は「国内の階級関係」を隠蔽し、「自国民(隣人)からも利子(税金)を搾取」と言う「ユダヤ思想(律法)の一点」を歪曲し、それに埋没しているのだ。「階級国家の基盤を支えているモノ」が「税金(盗んだ金)」での「各国国内支配階級社会の維持」と「国際的諸国家関係での国家維持」だから・・・植民地や属国の被支配階級は二重、三重にも「自国民」としてはもちろん、「他国民」としても「搾取」されているのさッ。

 「国外に存在している自国民が生命の危機に晒されている時」には、少なくても現今の「日本国家」以外の「国家支配者」は「自国民の諸事情」がどうであれ、「個人的自己責任」などとは口が裂けてでも言わない。ましてや「弁護士出身の政治家」であるなら尚更である。また、「拉致」をアイマイにする如何なる「国家」も存在しない。「国家」は「階級組織」だが「日本国家」以外の「国家支配者」は「自国の国籍」を有している「人間」ならば、その「人間の思想」如何にかかわらず「国家エゴむき出し」で、その「危機的状況の人間」の生命の安全と確保を「コトバ」でも「行為実行」に於いてもする。「国家支配者」は、それが理不尽であっても「国家支配の階級維持」のタメに身内はまもる、と「コトバ」では言明するのさ。そして身内で裁かさせろ、と言うのだ。沖縄駐留で「日本人」に罪を犯した「アメリカ兵」は人種、思想、出身階級の如何を問わず、「アメリカ国家」は断固として「アメリカ国籍人」として護っている。「他の諸国家権力者」もコレは同じである。「自国民」が危機に晒され、殺されたら・・・仕返しをするのだ。少なくとも言辞を吐く。これは「任侠道の親分子分」の関係ですらソウである。家族に於いてはどうか?・・・身内が悪人であろうが、法を犯したものであろうが「身内を裏切らない」、少なくても「敵」には自らわたしたくないのが「心情的鉄則」である・・・「拉致国家の支配者側」はどうか?・・・「国家の英雄」と讃えている「拉致実行犯」を・・・「国家」はマモルのだ。
 「身内の繁栄」とは「身内の支配者へ組織化された繁栄」である。そして、「身内の枠内でその恩恵享受」をダレもが願っている・・・「他家の凋落衰亡」はなんのその、「一家のみの繁栄と安全」を・・・「ユダヤのカミサマ」はそれをアブラハムに一方的に「約束=契約」させたのだ。相互契約として一方の「アブラム=アブラハム」が望んだとは「旧約」には記録されてはいない。「アブラハム」は人間としての立場で、葛藤し、疑い、この「カミ」と対話している。だが、この「ユダヤの神」はすこぶる押し付けがましく、「エゴイスト」であることを自らも言っている。「正直者のノア」を最初の段階で救ったのだからその生き残っていった子孫はこの時点からすべて救われるべきだが・・・どうやらこの「神」には「パウロの愛」と言うモノを理解していなかったらしい。「パウロの愛」は「契約の眼中」にもなかったらしい。契約をしたのは現実的な子孫への「生活(圏)の保障」である・・・生き残り、生き残って行く者のタメの「シビアな生命保険契約」であった。
 「パウロのカミ」とは別ものである・・・で、人種、民族、階級階層に関係なく「愛憎」は生きて存在している「人間疎外されているモノ同士の問題」だな・・・

 「愛(憎・ゾウ=怨・オン)」に埋没することなく、「自由・平等・博愛」が「ダレ」のタメの、「ナニ」のタメの「範疇概念」であるかを、現実的な人間関係に立脚した、その人間の観念=概念で、アンタも考えてみるべきだなッ。
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