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2015年01月25日01:25

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徐福と素戔嗚

原田常治の神社伝承学では石上神宮に祀られているフツ、フツシ、フルが親子三代で、フツシが素戔嗚、フルが饒速日に比定されている。
その内容は下のウェブページの「布都・布都斯・布留」の項目に簡潔にまとめられている。
http://homepage3.nifty.com/kiya/sehachi/kiya330b.htm
石上神宮の布都御魂大神、布都斯御魂大神、布留御魂大神の三神は、島根県平田市の宇美神社が布都御魂を素佐之男の父親として祀り、茨城県石岡市の総社神社が布留大神を素戔嗚の子として祀っていることから、布都(素戔嗚の父)と布留(素戔嗚の子)の中の布都斯は、素戔嗚の別名であるとされたようだ。
[素戔嗚の父子関係について神社伝承が実際にそうなっているのか調べてみたが根拠薄弱であった]
またある人がフツを徐福に比定していたのを見て、徐福、素戔嗚、饒速日の系譜がずっと気になっていた。
徐福はまた徐巿(ジョフツ)と呼ばれるから、音の類似による比定だろう。[ちなみになぜ市イチをフツと読むのか疑問に思って調べてみたら、徐巿の巿は市場の市とは別字であった。市場の市は亠に巾で5画、徐巿の巿は縦棒が繋がっていて4画]
徐福渡来は史記に記されていて、最初に旅立ったのが始皇28年(B.C.219)、大和朝廷成立前に想定する素戔嗚の活躍時期にしては早すぎるような気がして、ずっと気になっていたが、徐福と素戔嗚の関係については出雲王家の伝承がはっきりとした答えを出してくれた。

その伝承によると出雲王家は17代続き三世紀に滅んだ。東出雲王国の向家と西出雲王国の神門家から交互に王を出し、王を出さなかった王家からは若君を副王として出した。王は大名持、副王は少名彦と職名で呼ばれた。[古事記は少名毘古那神、日本書紀は少彦名命と記すが、スクナヒコナは間違い、出雲国風土記では飯石郡多禰郷に須久奈比古、伯耆国風土記は少日子と表記され、地元の伝承が正しいという]
八代目出雲王の時(神門家の八千矛が大名持、向家の事代主が少名彦の時代)に石見国五十猛に上陸、徐福は大国主・八千矛の娘、高照姫を娶り、五十猛を生む。徐福渡来の混乱の中で、大名持と少名彦は謀略によって死亡したが、徐福は日本の王になることができず、失望して帰国。五十猛は成人して高照姫の姪、大屋姫を娶り、高倉下(タカクラジ)を生み、秦氏を率いて丹波の北部に移住、後に海部氏となる。海部氏の始祖火明命が徐福、その子、香語山命は五十猛、その子、天村雲命が大和初代大王となる。
徐福の二度目の渡来は九州北部への上陸となる。徐福の九州での後裔が物部氏になる。饒速日は徐福の九州での和名という。
饒速日が本来の太陽神で女神の太陽神は後に捏造されたものという説が流行っているが、実は出雲の太陽神は女神であった。出雲族は女系家族であったので太陽神は自ずと女神とされていた。三輪山には出雲の太陽神が祀られていたという。ちなみに出雲族の故郷は鼻の長い動物がいたところと伝承されているが、インドでも太陽神はガーヤトリー女神として崇拝されている。
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