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2014年10月26日21:33

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現代俳句鑑賞1

熱帯魚のひげを見てゐる応接間 清水良郎
 「俳句」二〇一三年十一月号より。第五十九回角川俳句賞受賞五十句「風のにほひ」のうちの一句。
 作者は応接間に通された。しかし、目当ての人物はなかなか姿を見せない。しばらくは部屋の中央の革張りのソファに、背筋を伸ばし、浅めに腰を掛けて待っていた作者だが、その時間の長さにいよいよ緊張の糸もゆるみ、背筋の力も抜けてしまった。部屋の中の調度を何気なく眺めていると、棚の上に置かれた一つの水槽に目が留まった。近づいて見ると、名も知らぬ大小数種の熱帯魚が静かに中を泳いでいる。最初はその華美な色彩や模様に目を奪われたが、作者の興味は次第にその魚らしい細部に注がれる。常に靡く胸鰭、透けるほど薄い尾鰭、細かなかすを含んでは吐き出す口。そして口の両端から無邪気に伸びた何本かの髭。それまで、熱帯魚とはただ観賞用に美しく生まれついたばかりと考えていた作者にとっては、熱帯魚にも、やはり近所の川に泳いでいる魚と同様、生きるための実用的な器官が備わっていたという発見が新鮮だったのだろうか。食い入るように水槽の中を覗きこむ作者。そこへ、訪問先の人物が突然現れた時の、作者の慌てぶりを想像してみるのもまた楽しい。

金魚鉢水が染まつてゐるやうな 清水良郎
 同作より。金魚の放つ色の明るさ、濃さが、素直な比喩で表現されている。一匹の金魚を入れるだけで、容器の中の水の色は一瞬のうちに鮮やかな朱色に変わってしまう。それは金魚の体から色が滲み出しているようでもあり、金魚それ自体が発光しているようでもある。たとえば裸電球が、中心のコイルに灯が点くと、たちまち全体が光の塊となってしまうのと似ている。私は、祭の夜店で金魚掬いをした後に、小さなビニール袋に数匹の金魚を入れて渡された時のことを思い出した。その袋の中の水は、無色透明ではなく、正しく金魚の色そのものであった。金魚の小さな体に秘められた、大きな生命感を讃える句だ。

鶏の腹に縫ひこむセロリかな 清水良郎
 同作より。「鶏の腹に縫ひこむ」まで読んで、一瞬ぞっとする。白い羽毛の下の腹を切り裂かれ、金切り声を上げながら暴れる、一羽の鶏の凄惨な姿を想像するからだ。そこへ、「セロリかな」が見えてほっと胸を撫で下ろす。この鶏は、もともと死んでいたのだ。体中の毛をきれいにむしられ、内臓も取り去られ、後は調理をするだけの状態に処理を施された鶏である。その鶏のぽっかりと空いた腹の中に、肉の臭みを消すためのセロリを始め、何種類かの具材を入れてぎゅっと紐で肉の切れ目を縛り付けたのだろう。ほっとした。しかし、本当にほっとしただけでよいのだろうか。確かにここでは料理用の鶏を使っているだけである。ごく普通の調理場の風景である。しかし、その「ごく普通」の光景の裏側には、つい先程、ちょうど私たちが「セロリかな」を読む前にどきっとしたような光景が、確かに存在したのである。つまり、加工される前の肉や魚には、確かに命が宿っていたという、重い現実がある。あっけらかんと叙された句の中に、深い意味が託されているようだ。

踊るなり風にそよげる稲のごと 谷口智行
 同賞候補作五十句「薬喰」より。夜の祭で繰り広げられる盆踊りの風景は、先入観を捨て客観的に眺めると、とても奇怪な光景である。数十人の人間、それも多くは初老かそれ以上の女性たちが、一棟の櫓を中心に輪になり、手を上げては下げ、歩を進めては戻しながら、決められた動作で前の人の後ろをついて歩く。それが、どこの角度から見てもみな一様の動作を、一様の速度で繰り返しているのである。同じ祭りでも、西洋のカーニバルのような華やかな印象とは全くの対照で、日本の「踊り」の印象は暗い。作者はそのどことなく感じる踊りの恐ろしさを、巧みな表現で比喩にした。一様に穂を垂れてうなだれる、一面の稲田。風が吹けば一斉に穂を揺らし、風が止めば再び一斉に静止する。稲田に一人立った時の、あの異様な孤独感は何だろう。何か稲田全体が何者かに洗脳されたように、風の思いのままに操られている。その中に、自分一人だけが正気でいるようだ。しかしそれは、翻せば周り全体が正気で、自分一人が狂気だという図式でもある。日本の踊りを見た時の、得も言われぬ陰鬱な感覚が、この句を見ることで妙に納得できた。

急がぬ日急ぐ毛虫を見てゐたり 岡田由季
 同賞候補作五十句「喚声」より。路上や壁の上を歩く毛虫は、いつでも凄まじい速度で動いている。それはそうであろう。彼らにしてみれば、そこは本来の居場所ではない。仮に彼らが目の利かぬ生物だとしても、そこが自分のいるべき場所でないことは、足の裏から伝わる材質の固さ、冷たさからすぐに感知するであろう。彼らは急ぐ。なぜならば、彼らはその時、生命の危機に直面しているからである。体の色や模様は、草木の中に紛れるためのものだ。枝に巻き付き高所から落下しないように、体の表皮は敢えて柔らかく出来ている。彼らは木の上、葉の中に隠れているからこそ安全なのであり、それ以外の場所にいるということは、いつ天敵や災難に遭遇するかわからない、一大難局である。そんな毛虫の恐怖も知らず、見ているほうは呑気なものだ。おやおや一体何を急いでいるのだろう、この毛虫は。急げば急ぐほど、毛虫の背中は忙しなく脈打つ。

「俳句」二〇一三年十二月号より。
みるみると籠に満ちたる蓬かな  清水良郎
 よく晴れた早春の一日、作者は野に出て、蓬を摘み始めた。地面にはようやく芽を出したばかりの草が、地面に這いつくばるように、産毛の多い若葉を懸命に空へ広げている。作者はその柔らかな草の上に空っぽの籠を置き、名もなき草に紛れて萌え出した蓬の葉を選んで摘んでいく。空には鳥が囀りながら飛んでいる。耳元には涼しい風が吹き抜けている。まだ冬の装いの体は動かしにくく、屈みながら地面の草を摘む作業は思いのほか体に応える。しばらく蓬摘みに精を出していると、じわりと額に汗が滲んだ。太陽は先程よりやや南方へ高まり、地面からはうっすらと陽炎も兆している。ふうと息をついて立ち上がり、大空に顔を向けて腰を伸ばす。体からぎりぎりと音がするようだ。見れば、空っぽだったはずの足元の籠は、もう底から半分ばかりも蓬の葉で満たされている。そんなにたくさん積んだ実感はないのにと、驚く作者。地面にはまだまだ緑の葉が無数に点在し、たっぷりの日差しを喜ぶように浴びている。摘んでも摘んでも、とても摘み切れる量ではない。本格的な春の到来を感じ、籠の蓬も作者の心も、充実感に漲っている。

歳月や銀河賑はひ始めたり  衣川次郎
 今や日本の夜には光が溢れている。夜の地球を撮った衛星写真では、ネオンの明りで日本列島の輪郭がくっきりと浮かび上がる。夜が明るくなるにつれ、銀河もすっかり見えなくなった。防犯や経済のために、日本人は尊い自然を犠牲にしたのだ。作者はそんな日本の姿を見つめ続けてきたのだろう。日進月歩で都市化する日本。それにつれて淡くなる銀河。とうとう銀河の姿も完全に失われてしまったかと思われた時、改めて頭上を見上げて息を飲んだ。そこには、かつてのようにまばゆい銀河が、昔と変わらない姿で広がっていたのである。しかし、実は作者は知っていた。それが本当の銀河の姿ではないことを。歳月は作者自身の体を老化させた。昔ははっきりと見えた目も、今ではうっすらと霞掛かって来た。月を見れば、月が二重に見える。当然、夜空に浮かぶ星の数も、全て二重に見えているはずだ。作者は今、実際の銀河を眺めながら、実際よりもまぶしい銀河を見ている。しかし作者は悲しんではいない。むしろ感謝している。歳月が、我が身の老化と引き換えに、誰にも見ることのできない、荘厳な自然の姿を作者の目に映さしめたからだ。

行列の出来る松本氷店  前北かおる
 昔はどこにでも氷屋や駄菓子屋があって、夏休みともなれば子供たちが小さな手に小銭を一枚握りしめて、ばあちゃんのいる近所の店へ駆け出し、かき氷を食べていたのだろう。他に娯楽の少ない時代だから、自然と子供たちが集まって来る。店の中は、まるで普段の教室さながらの賑やかさである。レモンやイチゴヤメロン。それぞれ好みの味のシロップをたっぷりと氷にかけて食べる。そしてシロップと同じ色に染まった舌を見せ合って、けらけらと笑う。それから幾十年。至る所で都市化が進み、氷屋もめっきり見なくなった。そんな中、都市近郊のとある場所に、行列のできる一軒の氷屋がある。厳しい夏の日差しが直射する中、Tシャツに麦藁帽といった何とも素朴な身なりの大人が五、六人、それぞれわが子の手を引いて立っている。蝉は鳴く。風は吹かない。滝のように噴出す汗。それでも親も子も楽しみに待っているのは、一杯のかき氷である。少年時代にこの店でかき氷を食べて育った彼らが、父となり再びこの店を訪れる。昔と少しも変わらない、ただ時代の流れとともに少しだけ古くなった「松本氷店」。都会の中で、この店だけ時間が停止したようだ。父親たちは、わが子がかき氷を食べシロップの色に舌を染める様を見ながら、遥か昔の、しかしつい先日のことのような、自分たちの少年時代を思い起こすのだろう。

秋雨や満員電車どこかに赤子  村越敦
 雨が降ると、肌寒さを覚える季節になった。人々は、いつもより少し厚着をして、朝の通勤電車に乗り込む。乗車率が二百パーセントを越えて来ると、普段よりも余計な圧迫を体に受ける。それでもそんな窮屈さにすっかり慣らされた大人たちは、気にも留めない様子で全くの無表情のまま、車窓に張り付く無数の雨粒を眺めている。どこかで赤子が泣き出した。線路の上を転がる車輪の低い音しか聞こえていなかった車内に、甲高い金切り声が鳴り渡る。その声の方角から、おおよそどの辺りで泣いているかは見当がつく。ただ首を回そうにも、他人の体で自分の体が固定されているから、顔を真横に向けるのさえ容易ではない。仕方がないから、黙ったままで外を見ている。赤子は泣き止む様子はない。それも無理はないだろう。まだ骨格さえ丈夫ではない柔らかな体が、見知らぬ連中の固い体に押されるのである。そしてそのいずれの顔を見ても、母親のように優しく微笑みかけてくれる表情はない。母親はなぜ、朝の通勤時間帯に幼いわが子を抱いて、果敢にもこのような満員電車に体を押し込んだのであろうか。そこには、切実な社会状況があるのかもしれない。この低賃金の時代、もはや夫の稼ぎだけでは充分に子供を養えないのか、あるいは夫とはすでに離縁してしまっているのか。子を産み育てるのは、決して楽しいばかりではない。一方に、現代ならではの過酷な現実が影を潜めている。

「俳句」二〇一四年一月号より。
冬麗やシーツかわけば風はらむ  小川軽舟
 日差しの強い夏場とは違い、冬は洗濯したものがなかなか乾かない。作者はある週末、朝の内から洗濯や物干しに忙しそうに働く妻の姿を、暖かな家の中から窓ガラス越しに眺めていたのだろう。ベランダに干されたベッドのシーツは、物干竿に掛けられても、水分を含んだ自身の重さのために、だらりと下へ垂れている。風が吹いても日が差しても、シーツは乾くどころか、いよいよ冷えて却って凍ったように微動だにしない。ところがそれから時が過ぎ、日も傾き始めた頃改めてベランダを見てみれば、さっきまでびっしょりに濡れていたシーツはあらかた乾き、尖った音を立てて吹く冷たい風に、ひらひらと煽られている。そう言えば、あれ以来妻が静かだ。買い物にでも出掛けたのだろうか、それとも昼寝でもしているのか。風にはためく真っ白なシーツが、作者家族の生活の平穏と幸福を物語る。

御降や一つ丘なる住宅地  小川軽舟
 正月早々、空を灰色の雲が覆い、雨を降らせた。隣近所との親交が希薄になったと言われて久しいが、新年ばかりはそんなことも忘れ、日頃疎遠な人同士でも道で会えば御慶を言い合うのが例年の新年らしい風景であった。作者も、そんな人々の晴れやかな表情を見て、年の改まった喜びを実感していたのかもしれない。しかし、今年の新年はあいにくの雨である。普段ならば町には晴れ着姿の人々が溢れ、どこからか笛や太鼓の音も聞こえてくるのであろうが、雨に降り込められた町は、しんと静まり返って人の気配さえ感じられない。一つの丘陵地帯に段々に並ぶ家々も、みなひっそりと窓や扉を閉じたままだ。一つの丘を分け合って住むという、本来ならば共同体とも言うべき住宅地だが、朝から降る冷たい雨のために各戸がそれぞれ別々に孤立している。心では他者との連帯を希求する人々と、それを阻もうとする雨。人との繋がりを大切に思いながら、人と繋がる術を忘れてしまった、現代社会を象徴するかのようだ。

凍蝶の模様の揺れてをりにけり  宮本佳世乃
 木々の枝に、辛うじて落ちずに残っている数枚の枯葉。その葉裏に、縋り付くようにぶら下がっている一匹の蝶。花も緑もない、全体が枯色に支配されてしまった世界の中で、蝶のみが唯一の色彩あるものとして華やいで見える。しかしその蝶の体にもすでに生命力はなく、凍えるような寒さの中で、ひっそりと終焉を迎えようとしているかのようだ。だが、たとえ蝶の生命の灯火が今にも消えそうになろうとも、蝶の本能は自身が蝶であることを忘れようとはしない。すでに自ら翼を動かし空へ羽ばたく体力を失っていたとしても、蝶は枯れた木の葉裏につかまり、風に揺られる枝の運動に身を任せて、その体を上へ下へと揺り動かしている。それはまるで、向かい風に揉まれながら、風圧に抗って舞う蝶の本来の姿そのもののようだ。蝶の体は凍てて動かない。しかし蝶の翼の模様だけは、蝶の鼓動と同じように必死に動き続けている。蝶は、最後まで蝶であることをやめようとはしないのだ。美しい蝶の意地を、作者は見た。

菜の雫散らし俎始かな  津久井健之
 蛇口から流れる水は、氷を使わずとも十分に冷たい。ボールに張った水の中から取り上げると、菜っ葉はまるで摘み立ての時のように瑞々しく、葉の先までしゃんと張っている。空中に上げられた菜っ葉は、束の間茎の根本から大量の水をボールの中へ落とすが、それが止めば、あとはぽたぽたと時間を掛けて雫を落とすばかりになる。だからといって、菜っ葉はまとった水滴の全てをボールの中に落とし切った訳ではない。複雑に入り組んだ葉の中には、まだ零れずに残っているいくつもの水滴がある。作者は菜っ葉の茎の部分を束ねるように指に持ち、それを上下へ軽く振る。すると、葉に残っていた水滴が勢いよく辺りへ飛び散る。その数滴が、これから菜っ葉を刻もうとする俎板の上へも落ちた。ころころとした丸い小さな水滴が、まだ出したばかりの乾いた俎板の上に乗り、光を放つ。その水滴は実際には無色透明のはずなのに、気のせいかほんのりと緑色を帯びているようだ。菜っ葉の放つ鮮やかな緑色が、水滴に映っているのだ。新年を迎えるにふさわしい、清澄な朝の景である。

冬の星午前零時のアラームよ  西山ゆりこ
 夜空は凍るような寒さである。真っ暗に澄み切った空の中に、光を放ついくつかの星が浮かんでいる。星は隣の星との連絡を保ちながら、ゆっくりとした速度で夜空を上り、円形の軌道を描きつつ徐々に中天近くに達する。地球の遥か彼方から入って来た星の光は、冬の地球の空気に触れることでたちまちに凍りつき、鋭さと鮮やかさを増して地上に届く。耳を澄ませば、光の粒と空気が擦れ合う音が聞こえて来そうだ。そんな中、突然鳴り出した一つの目覚まし時計。この日の正午に起きようとセットしておいたものが、スイッチを切り忘れたために深夜の〇時に鳴り出してしまったのだ。慌ててアラームを止めに走る作者。さっきまで張り詰めるような静寂に包まれていた星空にも、一瞬動揺が走った。しかし作者が再びもとの場所に戻って見上げる時には、星はすっかり平静を取り戻して、何事もなかったかのように輝いている。突然のことに驚いた作者の鼓動音だけが、森閑とした冬の夜空に、異様に大きく鳴り響いている。

「俳句」二〇一四年二月号より。
起きて生きて冬の朝日の横なぐり 金子兜太
目が覚めると、夜はようやく明けたところであった。山越しに姿を現したばかりの太陽は、赤い。寝具から抜け出すと、一夜の内に部屋に満ちた冷気が、たちまち作者の体を覆う。寒いと感じる。しかし作者は、そこであえて窓ガラスを開けた。東の空低く燃える太陽は、作者の頬をぴしゃりと平手で打つように照らしつける。一層厳しい外の冷気に肌を晒しながら、作者は日差しの暖かさを僅かに感じる。冷たいこと、温かいこと。それは即ち、自分が今生きているということだ。生を授かり、生かされているということだ。ならばその命を、大切に輝かさなくてはならない。粗末にすることはできない。作者は冬の朝日に、笑顔を以て答えたであろう。今日も精一杯生きるよ、と。

ふゆざくら息のこんなにさみしいとは 津久井紀代
 自分なりに満足して生きてきた。大切な人たちと知り合い、大切な家族をも授かり、幸福な人生を歩んできた。それなのに、なぜだろう。改めて自分の半生を振り返ってみた時、何とも言えぬ遣り切れない思いのするのは。充実した人生を生きてきたはずなのに、何だろうこの焦燥感は。心にはびこる、茫洋とした虚しさは。私の息は、なぜこんなにも寂しげなのだろう。見上げれば、冬の桜が咲いている。まだ寒い冬の青空に、小さな花弁を幾つも、懸命に広げている。そうか、あなたも頑張っていたのね。心のどこかで、無理をしながら。頷くはずもないのに、風に煽られた冬の桜は、答えるように上下に揺れていた。

「俳句界」二〇一四年二月号より。
冬遍路と合掌し合ふお達者で たむらちせい
 宿屋で邂逅した、名も知らぬ遍路である。別の目的でこの地を訪れ、偶然に一晩を同じ宿に投宿した作者は、すでにその遍路に他人とは思えない友情を感じていた。朝、早々に準備を済ませると、遍路は先を急ぐと言う。元来口数の少ない者同士である。くれぐれもお達者で、と声を掛けた後、作者は恭しく両手を合わせた。しかし、それをしたのは作者ばかりではなかった。遍路も同じように、作者へ向けて手を合わせると、その無事を祈ったのである。遍路は危険な旅である。ましてや冬の寒さの中、北風に身を切られ雪に足を奪われて、山間の道なき道を進まねばならない。うまく宿を取ることができなければ、寒さに命を奪われる危険さえ伴うであろう。しかし、それを押して、冬の遍路は一旅人に過ぎない作者の安全を祈願した。作者はそれに心を打たれた。己の身を顧みるよりも、まず目の前の人の身を案ずる。それは、遍路という厳しい修行が、彼に悟りを開かせた証である。いよいよ己の人間の小ささに気づかされた作者は、遍路の背中が遠くなり、やがて見えなくなるまで、その場からずっと遍路の無事を願い、見送っていたことだろう。

泣初や日差しのいろの椅子と卓 津川絵理子
 作者は泣いている。なぜ悲しんでいるのかは分からない。とにかく感情が破裂しそうで、溢れ出す涙を止めるいかなる手段もない。南向きの大きな窓ガラスからは、冬の日差しが目一杯に注ぎ込んで、作者のいる部屋の奥まで明るく照らしている。テーブルの上も、そして対面の椅子の背凭れも、まるで狐の毛色のような、暖かな優しい色に包まれている。その中で、作者は一人泣いている。感情に任せて、気の済むまで、我慢するのも忘れて。お姉さんだから、もう泣かないのね。遠い遠い昔、まだ作者が子供だった頃、作者の母はよくそう言ってぐずる作者をなだめたものだ。そんな母の声が、今でも耳元に聞こえてくるようだ。しかし、大人になっても泣いたっていいのだ。皆どこかで泣いている。大人は、それを隠しているだけだ。そして今は何より、作者の体は嘘のように暖かい日差しの中に包まれている。何かに似ている。ああ、そうだ。泣きじゃくる私を抱きしめてくれた、あの母の体の温もりと同じだ。作者は、今も泣いている。冬日は、それを受け入れている。気の済むまで泣いていいのだと、遠くから、優しく作者を包み込んでいる。

鮟鱇に耳があつたか聞いてをり 森野稔
 作者の前には、天井から吊るされた鉤状の金具に無残に残された、鮟鱇の顎と背骨ばかりが垂れ下がっている。鮟鱇の吊るし切りは、今しがた終わったばかりである。作者はそこにいた人に、しつこく尋ねている。鮟鱇に、耳はあったかと。しかし人々は、作者の話には取り合わない。売り出された鮟鱇の、少しでもいい部分を手に入れようと血眼である。一方作者は、鮟鱇の身のことなどはどうでもよい。鮟鱇には耳があったか、ただそのことばかりが気になって仕方がない。というのも、作者はいつかどこかで、鮟鱇に耳があるらしいという情報を得ていたのである。だから、次に実際の鮟鱇を目にする機会があったら、ぜひとも自分の目で確かめてみようと、常々考えていたのだ。ところが、絶好の機会をこの日逃してしまった。地元のスーパーの鮮魚売り場で、珍しい鮟鱇の吊るし切り実演があると聞いて慌てて駆け付けたのだが、作者の到着した時には、すでに鮟鱇は顎と骨だけになってしまっていた。悔やんでも悔やみ切れない作者は、その場にいた人から事の真偽を必死で聞き出そうとする。が、後の祭りである。作者はもやもやとしたものを心に引きずりながら、また次の機会を待たなければならない。

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