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2014年09月17日19:21

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ネット他で見つけた類例 ROKKI -録記 ランダム

※※ 現在は振り返り中。記録の保存と整理をしています ※※

http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=5778917&id=65147813&comment_count=65
[28] 2011年10月11日 23:31

id=22171567

依存は何も恋愛だけではなくもっと身近にある。


多くの人が身近な人の依存心に苦しめられている。

或いは逆に、多くの人が自分の依存心によって他人を苦しめながら、全くそれに気が付いていない。

受身で依存心ばかり強い恋人から、毎日クドクドした押しつけがましい説教をされて悩んでいる人がいる。

受身の親から、憎悪を内に含んだ「愛情」を受けて、心が拘束されて、どうしても安心感を持てない子供がいる。

自ら傷つきやすさに苦しむ人、身近な人の過敏な反応に痛めつけられる人、自分自身の優柔不断さに自己嫌悪している人、自分の世界に閉じこもり、心を開いてくれない恋人に絶望する人、相手と親しくなりたいと願いながらも孤独から抜け出せない人。

安心感とは…依存心と受身が深く関係している。

そして、依存心とは、弱い立場にある人が持つ。

普通は親が自立心を持ち、子供が依存心を持つ。

そして強い立場にある親が依存心の強い子供を指導し、子供は依存心を克服していく。

自立心のある親は、子供の依存心を受け入れながら、必要な保護を与えて育てていく。

依存心は受け入れられることで解消していく。

それを成長という。


ところが、この自然の法則に逆らうことが社会には幾らでもある。

つまり、強い立場にある人が依存心を持っているということ。

強い立場にある人の依存心は、弱い立場にある人の依存心を受け入れない。

依存心は依存心を受け入れることが出来ない。

自分より強い立場にある人が強烈な依存心を持っている時、人は安心感を持てない。

人は受け入れられることによって安心感を持てる。

強い立場にある人が依存心を持っている時、弱い立場にある人は、所有されたり、利用されることはあっても、受け入れられることはない。

他方、弱い立場にある人は、相手の役に立つことによって評価されようとする。

そして相手に評価されようとして、もっと相手に役立とうとする。

この種の人が基本的に誤解しているのは、受け入れられないことの原因を自分に求めてしまうこと。

受け入れられないのは、相手に受け入れる能力がないと理解すること。

安心感を求めている人が、もしこの理解を欠けば、いつまでも無駄な努力をして、自分を傷め続けることになる。

相手の役に立つことで受け入れられようと努力する子供が、その役に立つことに失敗すると、家庭内暴力や登校拒否のようなことになる。

また、役に立つことに成功している限り、その間違った努力を続けて、大人になって神経症になる。

安心感を持てない時は、幼い頃から多くの人に「所有」されたけど、「受け入れ」られることがなかった。

自分にとって大切な人に、自分が受け入れられないことによって、自分で自分を受け入れることが出来なかった。

従って、安心感が持てなかった。

そして自分にとって大切な人に、他人を受け入れる能力が欠如しているから自分が受け入れられないのではなく、受け入れられないのは自分がより役に立たないからだという決定的な誤解の上に生きてきた。

安心感について、この基本を理解すれば、安心感を持つ道は開けてくる。


依存心の強い人で、かつ強い立場にある人は、弱い立場にある人を「所有」しようとする。

これが典型的に現われるのが親子関係、会社に於ける上司と部下、学校に於ける先輩と後輩などが当てはまる。

この場合、子供は親の所有物になってしまう。

そして依存心の強い人は、お互いにそれを愛情ある結びつきと錯覚しているが、そこには相手への愛も尊重もない。

強い立場にありながら、依存心の強い人にとって、権威への服従が最も価値の高いものになる。

弱い立場にある人が、自らに服従しない時、それは罪としか考えられない。

依存心が強く、かつ強い立場にある人は、自分にとって都合の悪いものはすべて悪として抹殺しようとする。

従って、依存心の強い人に所有された人は、様々なことで抑圧を強いられる。

抑圧された攻撃心は、その人を無意識下から不安にする。

これで安心感を持てるわけがない。

自分が安心感を持っていなければ、年を取るにつれて自分がまた他人を「所有」する人になっていく。

今度は自分が他人に悲劇をもたらす。

依存心の強い人に自分の精神を食い散らされた人は、同じように弱い人の精神を食い散らして生きていくことになる。


とまぁ こんな負の連鎖が今 起こっていると思う。
イイネ!
1人がイイネ! (012015 収録)


同上
[21] 2011年10月11日 09:59

id=38384117
自立と自律は違います。

自立は自分で社会に立ち向かう事、自律は自らを律する事です。

さて、依存は戦後に起きた訳ではありません。

今のじじばば特に95歳以下からのじじばばから存在してます。

理由は哲学や思想など学ばず学力重視され物の豊かさばかり追い求めてるからが一つ、もう一つは日本人が古来から受け継がれたものだと考えられます。

しかし外国には依存が存在しないと言う訳ではありません。もし依存がなければ経済危機は存在しません。

自分勝手な人や一部の富裕層や政治家が依存の大元を作ってます。

巻き込まれない為にはまず自分の身は自分で守る、任された仕事は責任もってやるとか考えられる事はすれば変わるはずです。

1人がイイネ! (012015 収録)


http://dokuoya.tumblr.com/post/4913741620
ゲシュタルトの祈り


私は私のことをします。 ですから、 あなたはあなたのことをして下さい。

私は、あなたの期待に添うために 生きているのではありません。
そして、あなたもまた、 私の期待に添うために生きているのではありません。

あなたはあなた、私は私です。

私たちの心が、 たまたま触れ合うことがあったのなら、 どんなに素敵なことでしょう。
でも、もしも心が通わなかったとしても、 それはそれで仕方のないこと。
(私とあなたは、独立した別の存在なのですから)
(そうでなくても、要求が同じと同じように素晴らしいことなのだ) 111314


http://maminyan.blog5.fc2.com/blog-entry-230.html#comment3744
私個人にとって、定型の怖さ、気持ち悪さというのは、「集団として共感しようとするがために」自分が被害を受けてなくても悪口を言う人に同調するという現象だったりします。 (101914 収録)


「性暴力、児童虐待……すべての暴力はつながっている」 DV被害者支援団体代表に聞く、被害に遭ったあとのケア<NPO法人レジリエンス代表・中島幸子さんインタビュー(後編)>
http://wotopi.jp/archives/9871
(前略)自分の被害を認めるということは、過去の経験を直視するということであり、被害に遭っていたときの恐ろしさや絶望感を再現する、おそろしいプロセスを始めるということ。直視を避ける方が多いのも、無理もありません。
(中略)過去を直視することによって、「ああ、私はこういうのが怖いんだ」「私にとってキツかったのはそこなんだ」って気づけば、自分自身で自分のケアを適切にできるようになります。
(中略)自分を家にたとえるならば、真っ暗な家の中を手探りで生きている状態から、少しずつ電気をつけていくような感じ。電気をつければ、「私、あの部屋のあのすみっこが怖いんだ。だから、こっち側にいよう」とか、「あそこはもう少しキレイにしたら、怖くなくなるかもしれない」とか、「あ、私はここにいるんだ」とか、そういうことがわかるようになる。 (092614 収録)


女とはめんどくさくもヤッパリたくましい, 2014/3/2 投稿者 Zoo
http://www.amazon.co.jp/review/R3G3S3QBP17JIO/ref=cm_cr_dp_title?ie=UTF8&ASIN=410335111X&channel=detail-glance&nodeID=465392&store=books
家族とは単に一人間同士の集まりであり、父という役割と、母という役割と、兄姉弟妹という役割と、子どもという役割をそれぞれが担うこととなった個々の集団にすぎません。
しかし、その近すぎる無遠慮な距離感故、各々の一挙手一投足が、どのようにして相手に影響を及ぼし、どのようにその者の一部となっていくのか、人生のおおよそ予測不可能な人間関係の明確な回答用紙を得られる最たる間柄です。
ただそれは、自身のもつ他者への愛情の否定へと繋がることと、こんな筈ではないと信じ込みたい自己愛への執着により、どんなに明確な答えであっても認めるのは困難なことです。

大人の全てを、選り分ける術も知らぬまま人間として形成の過程を歩んで行く子どもにとって、大人の全てが全てとなり、無責任に浴びせられる自己満足の極みが彼等の人生を良くも悪くも決定してしまう。
ならば、親とはどうあれというのか?「完璧な人間なんていない。親でも唯の一人間に過ぎない。」確かにその通りだと思います。
ただしかし、親になるという事は、正しくそう言うことではないでしょうか?親といえども、子への愛より自己愛が勝るゆえに、それをただ認められないだけで、人間が形成されるそのさまを担うという選択を、自身の人生においてしたという事は、少なくとも一番重く決して逃げることのできない責任を引き受けてしまったという事実は忘れてはいけない筈です。

似たような境遇でも、反発心どころか其れに順応させる為ずる賢くも自己改革をし、本当の自分は何なのかを失って育った私にとって、著者の突き進んで生きようとする姿はとても新鮮でした。
そして順応・猛進、どちらに進んでも一端の大人になれば行きつく先は同じ、一度は自己の破壊経験にしか繋がらないんだなと知ることができました。
死ぬか、それとも生きるか。けれども、行き着いたそこから得られるものはかけがえのないのもです。

人間関係を俯瞰し、回答用紙の存在も、それを含めた自分そのものを認めてもいいのだと気が付かれた著者に心からのエールを送ります。 (092314 収録)


こんな面もあった(No.6宛コメントレス) http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6385971.html
   母親はいつも優しく接してくれてます。感謝しています。
   一時期、他人に対してそのように思う時期があったのですが
   自分の意思よりも相手の意思を汲み取る事ばかりに意識が向いてしまい
   ちょっと後悔してるんです。バランスが難しいな・・・と思います。
   構ってもらいたくて、やさしくしていたというか。
   そんな部分があったような気がしてならないんです。
   心から他人を思いやれているような気が今はしません。

   今は自分の事を考えがちですが、確かに苦しいです。
   自分の気持ちは大事にしたいけど、相手の事も考える・・・難しいです。

   ご回答どうもありがとうございました。 (091714 収録)
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