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2014年06月22日23:22

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【きみとぼくだけの宝島】悪の華/押見修造

『二度とくんなよ ふつうにんげん』


もうねぇ、涙なしでは見られないラストでしたよ。
本当によかった。最高でした。わたしのオールタイムベスト漫画のトップ5あたりに食いこみましたよ。何度も言ってるけど本当10年に一度あるかないかの漫画だったと思います。

『思春期を生きのびた人間だけが大人になれる』
とは桜庭一樹の「砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない」に出てくる言葉ですが、まさしく本作「悪の華」も生死紙一重ぎりぎりの、命がけの青春を描いた「思春期もの」でした。

思い出すだけでうがああああああとかもやぁぁぁとかずーんとか動悸と赤面と涙目のフルセットコンボというか、胸が苦しくて恥ずかしくてでも甘酸っぱかったりめちゃくちゃ楽しかったりつまんなかったり消し去りたかったり山ほどの後悔とか悲しみ寂しさとか、取扱注意の心の弾薬庫に厳重に封印して見ない振りしてるけどそれでも時々取り出して触れずにはいられない「あの頃」。
息(生き )苦しくて怖くて不安で無力感でいっぱいでとにかく未来がおそろしくて身近にあるものに当り散らしたり壊したりするしかなかった「あの頃」。

思春期が苦しくなかった人間なんているのでしょうか。
苦くてつらくて暗くて無力でひとりぼっちで、あの頃にもどりたいなんて思うはずない。

やっぱりねぇ、思春期の子どもはスポーツをやるべきじゃないですか。
わたしは残念ながら中学生の頃は文化系で高校生の頃は小遣いのためにアルバイトしまくってましたけど、中高生は体と環境が許す限り体動かして汗流すべきです。
わたしは社会人になってからお金と時間にゆとりが出来たのでホットヨガとかランニングとかはじめましたけど、すごくいいのが余計なこと考えずにすむってとこですもん。
さいきんでは思考がダークサイドに落ちそうになったら走りに出るようにしています。心臓ばくばく汗ダクダクになるまで走ったら、まさに余計なものがそぎ落とされるんですよね。
シャワー浴びたら眠気がずうんって来て爆睡だし。
けっこうひどめの肩こりなんかもあっさり治るし、体中の骨があるべき位置にしゃんとおさまる感じがして、ほんとランニングはおすすめです。

春日も仲村さんも中1の時点で運動系のクラブに入っていたらよかったんじゃないですか。
そしたらあんな暴走した青春送らずにすんだかも。

とにかく秀逸な漫画でした。
わたしはこの作品で初めて押見修造という漫画家を知ったのですが、この人のこの瑞々しくて苦々しくて心臓がねじきれそうになるすさまじい青春描写力はデビュー当初からあったものなのでしょうか。
劣化したものが見たくなくて好きになった作者の過去の作品とかあんまり探し出してまで読まないのでそこんとこ気になるけど、気になるけどううん!っていう複雑なファン心理。思い出は常にいちばんいい位置で美しくいさせてほしい。
とりあえずこの押見さんの悪の華における見所をかいつまんで言いますと、

・とにかくおんなのこがかわいい。

おにゃのこですよほんと!女の子じゃ足りないこの圧倒的可愛さ、おんなのこ。
常々男は「女を恐れている(憎んでいる)男」か「女を可愛くおもっている男」の二種類にざっくり大別出来るとわたしは思っているんですけど、こういう創作物に触れるとますますそれが出るというか、例えば桑田真澄とかクレイジーケンこと横山剣とかは疑う余地もなく心から「女を可愛いとおもっている男」なんですよ。
押見さんもほんと間違いなく「ああ、このひと女を可愛いと思ってるんだ」と読んでいてびしばし伝わってくる。
とにかく仲村さんがちょーーーーーーー可愛い。特に泣き顔。
科学的に「萎える」と言われている女の泣き顔をあそこまで可愛く美しくそこに温度があるかのように描ける男性作家って、そうはいないと思います。
貴重なんですよほんと!女を可愛いとおもっている男は。漫画家みたいな文系では特に。
しかも仲村さんみたいな複雑怪奇な精神構造を持つ面倒くさいおっかないヒロインをかつ「可愛く」描くなんてどう考えても至難のわざですけど、押見さんはそれをやってのけちゃう。これは偉業だとおもいます。

だって十代のおんなのこを可愛く描こうとおもったら、まず描くその人が「この子は世界一可愛い」と、溢れんばかりのパッションを持ってなきゃペン先からそれが出るわきゃないんですよ。
でも十代のおんなのこを心っから可愛いと思える男の人ってそうはいないでしょう。
十代のおんなのこといちばん身近だった十代の少年だった時、女子を心から可愛いと思えたかっていうと、大部分はNOじゃないですか。
未知なるおそろしいものだったんじゃないかと思います。
女の子にとって男がそうだったように。
でもたぶん、押見さんはその十代のときに、女の子からやさしくされた、そういう経験があったんじゃないでしょうか。
相手の体温の分かる肩が触れ合いそうな距離で髪の香りを感じたことがあったんじゃないでしょうか。
だからこういうのが描けたのかなぁと想像してしまう。
だってねぇ、仲村さんも佐伯にゃんも、あまりにも生々しくって瑞々しくっておっかなくてとっても魅力的なんですもん。


・押見さんの"思春期"に対するやさしさとか。

自分のものを思い返してみるに、思春期のガキの頃なんて唾棄すべき忌まわしい過去で、苦しくてつらくてまさしく生きのびたって印象で、この手のジャンルの作品を思い浮かべてみてもやっぱり同じような、読み終わったあと後味悪かったり悲しくなったりするものですけど、悪の華はそこが大きく違いました。
ものすごく爽やかで晴れやかで、生きる力が沸くような、希望に満ちたラストでした。
台風のあとの朝の空のような。
このラストに、わたしは作者押見さんの押見さん自身の「あの頃」に対する優しいまなざしを感じずにはいられませんでした。
この作品は自意識を持て余して振り回されてさんざん迷いあぐねいて自分でもわからないもやもやしたなにかにふと追いつかれそうになって夜中に叫びだしたくなった「あの頃」に対する鎮魂歌であり、そして今まさに「それ」に囚われている子どもたちへの応援歌でもあるのかも。

読みながらずっと、わたしは春日くんと仲村さんのふたりにはもはや既視感に近いレベルで感情移入していて、彼らの痛みも寂しさもむなしさも興奮も焦燥も苛立ちも、すべて我が事かのように胸をきしませながら感じてしまって、お祭りのやぐらのシーンなんか思い出すだけで涙が浮かぶほど泣いてしまうくらい、とにかく不完全で未熟で不恰好で痛々しいくらいうつくしい彼らの魂が愛しくて仕方ありませんでした。

自分がなにものなのか分からない、なにをしたいのか分からない、でも確かなのはこのまま何もせずにいると「大人たちの社会」によって自分たちの魂が枠にはめられて形を決められてしまう、そのことに対する底知れない抵抗と恐怖。
自分たちの魂を守りたいという幼い、でも切実なる思い。
二人で秘密を分かち合って夜ごと蒸し暑い秘密基地で悪だくみをしていたあの時に、きっと春日くんの魂と仲村さんの魂は融けあってどっちがどっちのものなのか見分けがつかなくなってなっていたと思う。
だから相手をどれだけ傷つけてもよかったし、何をされてもよかった。
だって相手は自分の魂の片割れだったから。
そのはずだったのに離れ離れになって生きることになって、お互い別々の道を歩いてそれぞれにそれなりに大事なものを見つけて。
でもどうしたところで、ふたりが魂を分かち合ったふたりだということは変わらないんですよね。

さんざん殴り合って波打ち際の砂浜を砂だらけになって転がりあいながらも満ち足りた顔で笑うあのシーンは、胸がすくような爽快さと甘酸っぱさに満ちていて、もうこのシーンだけでも読んでいてよかったと思わせる、最高のラストでした。
暴れ疲れて横たわりながら仲村さんが春日くんに向けて最後に言った、

『二度とくんなよ ふつうにんげん』

にこめられた一万語をつくしても表せない「ありがとう」「おめでとう」「忘れないね」の想いのこもったこれ以上ない餞の言葉に、ずっと今まで読んでいたわたしの「あの頃」さえも救われたような、ひとつの完結を見たような気さえしました。

かくも思春期とはふしぎなものです。
あんなにつらくてもどかしくて苦しかったはずなのに、過ぎ去ってもう二度ともどれないおとなになってはじめて、かつていたあの場所がまぎれもない「楽園」だったことに気づく。

最後に春日のみた夢はそういうことだったんだと思う。
ていうかね、春日君が仲村さんと教室墨だらけにした時から、そんな青春送っちゃったお前はもう将来映画監督にでもなるしかねぇよ…と思ってたんですけど、あの白紙のノートに一筆かいた彼はあの後、どんな形にせよ間違いなく仲村さんと自分のかけがえのない青春を描くのだと思います。
その作品があの各地でかなしくも「イミフ」と言われている最終話なのじゃないかと。わたしはそう解釈したんですけど。

もーほんと、春日君と仲村さんには30年後くらいに同窓会でぞんぶんに語り合ってほしい。お互いほどよくハゲのおっちゃんとデブのおばちゃんになって、「あの頃ぼくきみのことすきやってん」「知ってるわ、わたしも春日くんだいすきやってんから」「ほんまかいな!ナハハハ!」みたいな、、、いや、、、これじゃあかん、、か、、、、。
でもいいとおもいます!

まったく最高の物語でした。わたしの中でほんと特別な作品です。

『悪の華』/押見修造
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