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2013年06月18日23:13

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再訪

昨年ボランティア参加で手伝った泊里(とまり)のKさん。
流された家の跡地に残った小屋。その小屋の中にあった用紙を干して乾燥させるという一風変わったボランティア活動でした。
その後その方からお手紙が届いたことで、住所はわかっていました。

せっかく大船渡にて1年過ごす機会でもありますので、住所を頼りに会いに行ってきました。
Kさんは仮設住宅に住んでいます。
私が行くと、急な訪問にもかかわらず大喜びで迎えてくださいました。
ボランティア活動の写真を全てとってあり、私の写真も出てきました。
それだけでなく、私のこともしっかり覚えていてくださいました。
写真を取り出す前から、私が行った時に一緒に活動した方々の話をするくらいに。

それから、震災から今までの話をしてくださいました。
Kさんは泊里で衣料雑貨店をしていました。
震災で、あたりは全て流されました。ひときわ高いところにトイレがあり、そこまで水が来たというのです。
見上げるその場所を見るにつけ、あたり一帯すべて水に飲まれたということがわかります。
鉄骨造だった衣料雑貨店の1階部分と、道向かいの小屋だけが流されずに残りました。
しかし店舗はもう使い物にはならず、解体しました。

フォト
左上に見えるのが被災前の店舗です。
被災時の様子。解体の様子。
そして現在、更地の上に小さな小さな仮設店舗がある様子。
私が参加したボランティアの集合写真。


震災が起きた時、Kさんは高台に避難しましたが、家のものや妻のことが気になり2、3度家まで戻っていたといいます。
Kさんの奥さんは陸前高田に行っていたが、慌てて車を走らせて戻ってきたといいます。
どちらも今思えば間違った判断だったと述懐していますが、結果的には危ないところで助かりました。
家に着いた時に奥さんは早く高台に上がるように促され、上がりましたが、車は流されたそうです。
Kさんは東京に居る息子さんに、とりあえず無事を知らせるメールを打ち、それは奇跡的に届きました。
その時間が3時15分頃。津波が来る時間の直前です。
でもその時には実はまだ奥さんと合流しておらず、とりあえず自分の無事を知らせるメールだったとのこと。
そう思うと、奥さんがいかにギリギリセーフだったのかと思います。

その後約2ヶ月間の避難所生活。そして仮設住宅に移り現在に至っています。
プレハブの仮設店舗は置きましたが、店舗再開の目途は立ちません。
年配の2人には、今から借金をしてまで本格的にお店を再開することは無理なのです。

これまでは生きることに精一杯だった。本当の再建に取り組めるのはこれから。
東北を忘れないで欲しい、とKさんは言いました。
震災直後に支援物資を送ることとは形を変えた支援を、被災地はまだまだ必要としています。
報道が減ってきて、見た目に震災の傷痕が目立たなくなっても、人々の生活の再建はままならない状態の方が多く居ます。


Kさんと奥さんはボランティアに来てくれた方を宝物のように思っていて、大変な状況にもかかわらずボランティアの方々に元気をもらっていると、とても素晴らしい笑顔を見せてくださいました。
フォト
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