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2011年12月31日01:43

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「そうか もう君はいないのか」



「そうか もう君はいないのか」


ある時、時間待ちをしていて書店に入り、偶然目にしたタイトル。
普段は漫画やそれに近い本、推理小説くらいしか読んでいない私だが、このタイトルを見た瞬間に、呼び寄せられているように感じて即購入した。

著者は城山三郎。
氏の著書は読んだことはないが、経済小説というジャンルを確立させた人物であるらしい。


それは、最愛の妻をがんで亡くした著者が、思い出を書き綴ったものであった。
とりとめもない美しい思い出が、ぽつりぽつりと語られている。
巻末にある次女の話によると、妻を亡くした7年後に亡くなった氏の、仕事場にあったばらばらの遺稿を集めてまとめたものらしい。
妻への深い愛情と、それ故に深い喪失感が痛いほどに伝わってくる。

読み終えると、とても幸せで、同時にせつなく、悲しい気持ちになる。
そして私は、この夫婦のことを羨ましく思う。
私達も、こんな風に年老いていく夫婦になりたい。いや、なりたかった。


氏の書き綴る思い出の後に、氏の次女が氏のことについて書いている。
長年連れ添った伴侶を喪うことの計り知れない喪失感を。

「母の死後、数日経って、父は独言のように、「看取ることができて幸せだった」とぽつりと言った。つまり、実は共に幸せな最後のときを迎えることができたのである。しかし、以後の7年間、父はどんなに辛かったか、計り知れない。想像以上の心の傷。その大きさ、深さにこちらの方が戸惑った。」
「連れ合いを亡くすということは、これほどのことだったのか。」
「ポッカリ空いたその穴を埋めることは決してできなかった。」





翻って、私はどうなのか。
入籍から半年足らず、式から3ヶ月足らず。
氏のように、長年連れ添った伴侶ではない。
だから氏のように、生涯を共に過ごしてきた半身を喪うのとは違う。
しかしその喪失感は同じだ。



氏は、妻の死後に、特攻隊員の小説を書いている。
エピソードの中で氏は、妻が死んで分かったこととして、次のようなことを書いている。

「死んだ人もたいへんだけど、残された人もたいへんなんじゃないか、という考えが浮かんだ。理不尽な死であればあるほど、遺族の悲しみは消えないし、後遺症も残る。そんなところから、少しの時間でも結婚生活を送って、愛し合った記憶を持つ夫婦を描けないかと思った。」
「その痛みや喪失感がなくなることなどないのでは――。」
「特攻隊員の親や妻子にとって、戦後は一種の長く、せつない余生であったのではないだろうか。残されたほうは、特攻機が飛び立った後、ただひたすら長い、せつない、むなしい時間を生きなければいけなかった。これは、どちらが、より不幸なのだろうか。」



ああ、そうだ。本当にそうだ。
同じ喪失を体験したからこそ、この文章が深く深く突き刺さる。
うわべを取り繕おうと、普段どおりにふるまおうと、根底にあるこの思いは決して消えることはない。


次女によれば氏は、妻の死後、妻のことを書いてほしいという依頼は断り続けてきた。


「それがある日、
 「ママがね、夢に出てきて『私のこと書いてくださるの?』って言うんだよ」
 と、照れ笑いとも苦笑いともとれる表情で言ってきた。当初は書きたくなかった母のことが、いつしか父の中で書くべきものに変わってきていた。」


氏が本腰を入れて書き始めたのが亡くなる半年前から。そして、最後まで書き上げることができずに逝った。

私はまだ、妻のことを書くことができないでいる。いつか、書ける日が来るのだろうか。


そしてまだ私は、タイトルのような思いに至ることはできない。
2年近く経とうと、まだ、いないという現実が受け入れられていないのだろう。
いつか、そのように思うことができる日が来るのだろうか。



2011年最後の日記で、重いもの書いちゃいましたね。まあ気にしないで適当に流しといてください。
この本がそれだけ私の心にずっしりと重い思いを与えていったということでしょう。

まあ、私は私ですので、これはこれとしてまた馬鹿馬鹿しい日記を綴っていくのでしょうから、ねw
これも私、それも私。ということで。


ではまた新年のご挨拶で会いましょう。

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