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2011年11月23日22:06

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<LOOP-02>第二部 押井守監督、語る語る大いに語る(1)

情報密度が濃くて脳がついていかなかったのでUstで補完しようと聞いてたら、もうほとんど聞き書き状態のアップです。私の理解の範疇、了解とは別のものですのでよろしく。
それと岡本美津子氏の司会進行や要所要所の巧みなまとめ、キム・ジュニアン氏の講義内容も興味深いものだったのですが、とても書ききれないんで断念しました。押井守監督語録に絞りました。それでも大変大変長いです。

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■第2回 映像メディア学サミット
LOOP-02「マンガ・アニメの映像メディア学的再考〜なぜマンガ・アニメは面白いのか〜」
2011年11月12日(土)
「アニメーションと日本の戦後社会〜ロボット、サイボーグ、アンドロイド、そして人間」
押井守、キム・ジュニアン+岡本美津子

「あえて、十字架を背負う」(『3.11の未来 日本・SF・想像力』押井守インタビュー)
「日本に技術はあっても、技術の思想はない」についての話から

近代産業社会のテクノロジー、科学技術において、日本には精密機械工業というのが成立したことがない。自分は軍オタなので、飛行機、戦闘機、戦車、軍艦とか昔から好きで勉強した。エンジンに興味があった。で、わかったのは航空用エンジンを日本は自力で開発できなかったということ。戦争のことを語るときいろんな語り口があるが、技術から語るべき側面はあると思う。
日本は明治維新以降、海外から近代的科学技術を輸入して自分のものにしていった。

言葉は元々中国から輸入。東南アジアなどの漢字文化圏は、イコール中国文化圏であった。日本は漢字文化を輸入しながら、中国文化と絶縁することに成功した。漢字を純粋にツールとして使いこなした。それが日本人だった。肯定的な評価はあるけれども、否定的評価でいえば、輸入されたものはすべて技術であるということ。技術によってたつところの思想を必要としなかった。

エンジンから原発にいたるまで、技術を輸入し自分たちのものとし産業化した。
ただ、なぜそれを使うのか、なぜそれが必要とされたのか、何を実現したいのか、なぜ人間が技術を必要としたのかという、根幹の部分(がない)。
技術の思想とは、ゼロからものを考えるということだと思う。日本人はそれだけは輸入することができなかった。
技術はツールでありながら、それだけにとどまらないなにかである。

『パトレイバー』をつくるにあたって、ロボットのコンセプトをどうたちあげたらいいか。メンバーと議論。当時ガンダムが絶好調で、製作元のバンダイがガンプラで巨万の富を築いてる。ガンダムの消しゴムを2億個売った。そんな時期に、ロボットものでなにを実現したらいいのか。

鉄腕アトムは人間そっくり。人間の比喩として物語の中に登場する。手塚治虫はロボットというよりも新しい種類の人間をつくりだすことで、人種問題や差別問題、特に戦後日本のメインテーマであった民主主義、我々は等しく人権があるんだという、わかりやすく象徴的にあらわれたものがロボットだった。日本と欧米のロボットの基本的な違いだと思う。
元々日本の場合はカラクリであったり、玩具であったり、工芸品で存在した。社会的文脈の中におけるロボットは存在しなかった。いってみれば鉄腕アトムで初めて、いわば人間の比喩として日本独自のメタファーとして、ロボットが登場したと考える。

転換をあたえたのがガンダム。ロボットが兵器になった。ヒューマニズムを問うためのメタファーではなく兵器であると。技術の頂点である兵器になることで、技術レベルにおける社会性を獲得した。同時にロボットそれ自体がもっていた、人間的なるもののメタファーが消滅した。

パトレイバーは警察のロボット、パトロールレイバー。パトカーの代わりに使うものがパトレイバー。
パソコンというものが普及しはじめた時期。ロボットをパソコンと同じように考えられないか。技術がハードとソフトの両面をもつんだと。ソフトの部分を担当するのがキャラクターであり、ドラマの部分である。肝心なのはハードとソフトの関わりの物語。それがパトレイバーの骨子だった。企画のスタート時点はそうだった。

当初考えていたパトレイバーのデザイン、元々最初に描いたのは四つ足だった。合理的に考えれば二足歩行ではないはず。 (実際原発内のロボットは6輪)
このオモチャは(バンダイ玩具として)売れません。ガンダムのような足の長い、角張った、強そうな、とんがったところがないと。ヒーロータイプのかっこいいロボットでないと。

技術の思想について。技術はなんのために存在するのか。そもそも日本は技術を輸入して何を実現したかったのか。本来技術はなにかを実現するための手段だった。手段を進化させるものが思想。
産業といわれてる世界で、技術がどんな価値を実現するために作り出されたのか。欧米的な意味での技術の価値というのものをスルーすることで、一挙に飛びついた。

原発というのは原爆よりも管理しづらい。廃炉にするだけで30年。そんな手に負えないものを日本はなんで輸入したんだろう。しかも原爆を落とされた国が。平和利用の原発は全部やり、戦争のための兵器である原爆は悪であると。はたして、技術というものはそういう風にふたつに分けられるものなんだろうか。そういった真摯な考え方もなしに、原発を輸入したことがそもそもの発端だった。しかもこともあろうにアメリカ製であり軽水炉であった。
原爆はこれまで暴発したことはない。原発は何度も事故を起こしてる。日本は輸入する時点である程度わかっていた。わかっていたにも関わらず、利便性にすべてをかけ、あえて目をつぶった。可能なのか、少なくとも技術をつくりだした人間たちはそうは思ってなかった。

ロボットアニメにもどると、ガンダムとかアトムとか兵器であり、メタファーであり、どちらでもない第3のロボットで語ることはできないだろうか。パソコンであると言い切ることにした。ソフトは書き換えられハードも進化する。より効率を追求していく。大事なのはハードにどんなソフトをのっけるのか。それが地球防衛軍ではなく、警察というところがミソ。日常の守護者である。平穏な日常生活を守ることが彼らの使命だ。基本的にはおまわりさん。

『機動警察パトレイバー』やるときに、ロボット学やってる先生や技術者に会っていろいろ話をした。
ある作家が「人間そっくりの機械をつくるより、人間が機械に近づいたほうがよっぽど早い」と言った。これは衝撃的な話だった。機械を無限に人間に近づけていこうという努力は、どちらかといえば欧米的な発想。人間というものを最終的価値として、人間がつくりあげたものは人間に近づけていくという、そこにも技術の思想。技術というもの究極にめざす思想のひとつが、人間を生み出す。『未来のイヴ』はその先駆けの作品。

『攻殻機動隊』で考えていたのは、デカルトの『人間機械論』。彼が言ってたのは、神が創造した自然物、動物は神のプログラムによって動いている。精密に作られた懐中時計のようなものだ。偉大な発明は神にしかできないんだ。人間だけが機械仕掛けの身体の中に魂を宿している、と。
これ自体矛盾してるし、すでにロジックとして破綻してる。日本人のように神を巧妙に裁けなかったから、日本人のように都合のいいように解釈できなかったから。魂の問題、肉体の問題は最後まで分離して考えることができなかった。結果、機械仕掛けの身体の中に魂を宿しているという、相当不気味な光景、なぜこのような不気味なビジョンしかたどり着かないのか、そこが彼らの誠実さだと思った。ロジックをつきつめていくと、そういう風なとんでもないところに連れて行かれる。
日本は最初から絶縁してたから。都合のいい部分だけ拝借する。肝心の思想の部分はいわば忘れ去るという。

士郎正宗に出てくるゴーストってなんだ。『攻殻機動隊』が海外で評価され評判になったとき、いろいろ取材され質問もされたが、最終的にひとつのことしか聞かれない。「ゴーストってなんだ?」と。答えに窮した。スピリットではない。魂ではない。フィジカルではないなにか。たとえていえば、あなたにも私にもゴーストがある。花にも犬にも猫にもゴーストがある。あの人形にもあるかもしれない。ゴーストってそういうもんだよ。スピリットではない。スピリットというのはいわば神様がつくりだしたものである。神の本質のようなものだから。
そうでない自然過程で生まれてくるものなんだ。自然発生するもんなんだよ。ある関係の中から、ある想いの中から生まれてくる。だから使い古した人形にもゴーストが宿るんだよ。日本人にはすぐに理解しやすい。想いのことですよ。これは残念ながら、海外にはまったく通用しなかった。わからない。わからなくて当たり前。それは両面の価値があるから。
欧米で魂といえばスピリット。神様と切り離されたスピリットはあり得ない。デーモンはあるかもしれない。デーモンはいってみればスピリットの端くれだ。

『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』の評価の違い。
ヨーロッパでは思想として受けとめられた。サイバーオリエンタリズムとして。オリエンタリズムってなんだ。ヨーロッパが中心であるという前提に立って、いわば辺境の文化。それを総称してオリエンタリズムという。正統でない、ギリシャ・ローマ的でない、キリスト教的でない、欧米的な思想の周辺にある思想。カンヌやベネチアの映画祭で、なぜアニメを招聘するのか。周辺の文化として参照してるに過ぎない。ヨーロッパはまだ日本と違ってオタク帝国にはなり得てない。アカデミックな部分とオタッキーな部分が共存してる。

アメリカはもっとはっきりしてる。ヤッピーの玩弄物だった。かっこいいと、ナイトクラブなんかで流されたり。機械、やたら強い女性が哲学を語りながらマシンガンを撃ちまくる。クールだ。アメリカ流のグローバリズムみたいなもので、いぜんとして両者とも自分のところの価値観で外側を語ってるだけ。

広い意味でのオリエンタリズムで受容されたに過ぎない。順番が違うのではないか。人間というのはなにを中心に考えるべきなのか。プラトン以降西洋の伝統的な哲学、思想の流れでいえば、人間の価値は知性・精神である。肉体はそれを裏切り続けてきた。肉体はいつも有限であり汚辱にまみれていて、やがて腐敗して消えていく。
ただ、そこにしか安住の場所がない。その相克、矛盾をどういう風に納得したらいいのか、いってみればそれが欧米の哲学の歴史だったと言っても過言ではない。
人間機械なんてその極端な例にしか過ぎない。サイボーグという概念が生まれることで、同じことの繰り返し。

精神の問題というのは、逆ではないか。身体から出発して考えたらどうだろうか。身体のないところに精神も知性も宿らない。身体のよってたつところの条件はなんなんだろうか。

19世紀的人間像といえば、人間というのはどこでつくられるのか。戦争を繰り返し、同族殺しを繰り返し、地球を荒廃させる。ほんとに人間というのは救いがないのか、人間はいかに制御するべきなのか、というところで宗教が出てくるのだが、宗教以外にないのか。宗教で人間を制御しようとしたら、また戦争が起こりいまだにそれが続いている。

「冷たい身体」という言葉は人形から発想したもの。ビスクドールから
養老孟司と対談したとき、「冷たい身体」と「匂う身体」の話をした。人間だけが身体と精神を分けて考えるのはなぜか。養老さんは自意識の問題なんだ、と。身体は身体として自覚されるわけじゃない。当たり前だけど、身体が身体を意識しないから。人間が犬や鳥のように無意識の世界に生きてるとすれば、精神だ身体だというような話になりようがない。

僕の言葉で語るとするなら、「冷たい身体」とは自意識のこと。自意識が生み出した身体。身体を抽象したもの。ロボットだろうがサイボーグだろうが人形だろうが、メタファーとしての人形なんだ。「匂う身体」とは無意識の身体のこと。端的に言えば動物の体のこと。
人間の体は存在としては「匂う身体」であるのに、それが意識されるときは「冷たい身体」としてあらわれてくる。身体と精神、肉体と精神という問題は、自意識のプロセス抜きにしてはあり得ない結論に。
『アバター』は極寒の身体(笑)。
自然状態としての肉体を、人間は考えることができない。うちの犬や猫にとって、身体は自明だから。したがって考える必要すらない。そこに精神性が無いかというとそんなことはない。彼女たちなりに喜んだり怒ったり悲しんだり寂しがったりしてる。もしかしたら人間以上に複雑な感性をもってるかもしれない。

(日本人は)肉体と精神という二元論をとらなかったばかりに、日本人は身体の問題を等閑視してきた。甘やかしてきたんだ。欧米人のように身体と精神の相克で悩んできたほうがまだましだったじゃないかと、最近思うようになった。

さっきの技術の思想の話になるが、けっきょく日本人が実現したいものってなんなんだろう。安寧な日常以外?守ってきてるんだろうか。安寧な日常を実現するための利便性であり、機械主義であり、それ以外なにか実現したいものが歴史的にあったんだろうか。そのことが僕の最近のメインテーマであり、いつも考えてること。あの3.11以降、よりその思いが強くなった。けっきょく身体であり人形でありなんであれ、日本人が実現すべきテーマをもたないということ。それ自体がテーマになったことすらない。

さっきの技術の思想の話になるが、けっきょく日本人が実現したいものってなんなんだろう。安寧な日常を実現するための利便性であり、機械主義であり、それ以外なにか実現したいものが歴史的にあったんだろうか。そのことが僕の最近のメインテーマであり、いつも考えてること。あの3.11以降、よりその思いが強くなった。けっきょく身体であり人形でありなんであれ、日本人が実現すべきテーマをもたないということ。それ自体がテーマになったことすらない。

腹割って話そうとか、胸をひらいて話そうとか、体を言葉で語れば語るほど、体から遠ざかっていくのは当たり前のこと。精緻に語れば語るほど、いわば肉体と遠ざかった欧米人と同じこと。日本人は巧妙にそれを避けてきた。そのツケがそろそろ出る時期なのかな。というのは、世界には日本以外の国があるから、日本人が世界の人と交わり始めて100年程度に過ぎない。これで問題にならないわけがない。

人形の話にもう1回戻る。人形が動き出すと、なぜ怖い。動くかもしれない予感のするリアルな人形はなぜ怖い。鳴子のこけしじゃない。ベルメールがつくる素晴らしく美しい人形はなぜ怖いかです。人間そっくりだから。人間そっくりだとなぜ怖い。つまり人形が怖いんじゃない。人間が怖いんだよ。そういう結論になる。人間がおそれてるのはけっきょく人間のことだ。もっと正確にいえば、人間は人間の意識をおそれている。あらゆるものを相対化し、あらゆるものを自分の言語空間にひっぱりこもうとする、その精神の働き自体をおそれている、ということになるのかもしれない。

(2につづく)

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