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2011年08月25日23:13

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8/18 ロケット姉妹@Jack、そして2009年7月

18日はS氏とロケット姉妹のジャックライブに行きました。
同じ場所から時間差で出発し、私は自転車、彼は地下鉄かと思って北12条駅で待ち合わせたところ、S氏は徒歩だったとのことでした。
最初は19時近くまで残業してからと思っていたのですが、S氏の都合に合わせて早めに行って結果的にはよかったです。スープカレーを食することができましたし、既にかなりの混雑となっていました。

ロケットのジャックライブは久々で、新ジャックでは初だったようです。ロケットの集客力は新ジャックをしてなおその収容能力を上回りつつあるのかもしれませんが、いつもの方々、初めての方々を交え、ぎゅう詰めでも居心地の悪さを感じない温かなライブとなりました。

初めてのお客様もいらっしゃると思うとこういう選曲になるという趣旨のことをユキさんがおっしゃっていましたが、御本人たちが捉えているロケットの芯のようなものが垣間見える気がして興味深かったです。

さて、前回は私が札幌に来た2009年春から6月までのことを書きましたので、今回は2009年7月のことについて触れてみたいと思います。

前回書いたように、あらさんやHard to Findの皆さんのライブに少しずつ足を運んで再会を重ねつつも、扇柳さんは意外にも6月までに機会が得られず、最初の機会がオオフジツボとのジョイントでもあったaasian kukkaの last 2daysとなったのだったと思います(例えばオオフジツボ当別の初日はロケットのアミカでのライブと重なっていました。)。

函館在勤中に急いで旭川に往復しなければならなかったことがあり、札幌での乗り継ぎの間に慌ただしく立ち寄った四丁目の玉光堂に並んでいるのを目撃して『はなのあめ』は購入していましたし、翌年首都圏に異動してからも、毎週「おいしい音楽」はチェックしていました。しかし、週1レベルのチェックでは、週前半の記事を読み落とすことが多かったせいか、最初にロケット姉妹の名前を見た時は、扇柳さんが本当の姉妹デュオのプロデュースかサポートを始められたのかと思いました。北海道での活動をすっかり軌道に乗せたマルカート・タテヤマユキさんとそういう名前のパーマネントなユニットを組んだのだということは、それでも札幌に赴任する前には理解していたのではなかったかと思います。

上記のとおり、7月3日のオオフジツボ初日には扇柳さんはロケットのライブがあり、当別ではあらさんお一人とのジョイントでした。

しかし、その前日の7月2日木曜日には旧ジャックにhataoさんがいらしていますので、まずそのことを先に書きたいと思います。

hataoさんはバタードッグスの頃には機会がなくて、私が拝見したのは2007年暮れにお一人で東京に来られた時でした。ブログのプロフィールを拝見してお生まれの土地が私と同じだったのが嬉しくて、そのことを申し上げた記憶があります。お伺いすると幼いうちに転居されたとのことでしたが。

ジャックの終演後、打ち上げの設営中に外の歩道でその時のことを申し上げたところ、もちろん覚えてはいらっしゃらなかったのですけれども、変わらず誠実に応対してくださったことでした。

この日のジャックも大盛況のぎゅう詰めで、おかげで至近距離での鑑賞になりました。印象に残っているのは、2007年にバタードッグスで来道された時のことだと思うのですが、音楽をやっている人ならわかると思うんですけど、バンドの壊れかけの時っていろいろあるじゃないですかとの御発言。
そういうものなのでしょうか。森脇真末味の漫画で描かれたバンド、ステッカーの崩壊過程が思い浮かんだりします。
でもそういう気分をお客に対する演奏の中に見せてはいけなかったと、当時来てくれた人には謝りたいと。やはりその誠実さが胸に残りました。

当時は打ち上げに残るなどおそれ多くて考えもせず、翌日に備えて帰宅したと思います。

さて、翌7月3日の金曜日はオオフジツボ来道の初日。平日に当別の山中でという条件でしたが、S氏との北と南からの美しい連携プレイにより、仕事を終えてからでも開演前にたどりつけたことは前にも書いたかと思います。

受付では今にして思うと坂本さんだったのではないかと思われる女性が、滝川と札幌から突然現れた我々にどこでこの催しを知ったのか尋ねてくださり、御出演の方々の…とお答えすると親切に前売料金で入れてくださったということがありました。

会場のゴルフクラブは地元町民が多数お見えの盛況で、演奏者の背後全面のガラス越しの緑に射す陽が少しずつ暗くなっていくさまが美しい音楽にぴったりでした。

S氏はあらさんのカンテレは初めてでしたが、ハンドリオンの時と同様、焚き火系音楽だなどと言って感銘を表現していました(そういえばS氏はオオフジツボもその時が初めてだったことになりますか。終演後にCDを購入し町民のサイン列に並んだS氏は、藤野さんから、持ってなかったんかい!みたいな突っ込みを受けていました。)。

スーツ姿だったので会場関係者と思われたか、あらさんのパート終了後の休憩時間中に通路でお客からトイレの場所を尋ねられ、自分もよくわからないながらも動き回ってどうにか案内していると、後半の出番に備えて待機中のオオフジツボの皆さんとちらっと遭遇してしまったのが4か月ぶりの再会でした。

後半では、私の後ろのS氏のそのまたすぐ後ろであらさんがにこにことオオフジツボの演奏を見守っておられるのに途中で気がつくということもありました。

音響を担当されたのがジッピーホールなどでもお世話になった高田さんということで、終演後には藤野さんがお礼かたがた御挨拶されていました。必ずしも音楽の場としては作られていないと思われるあの広い会場で、カンテレも、ギターも、アコーディオンも、ヴァイオリンも本当に聴き取りやすく美しく響いていました。

御出演の方々はもちろん、遠路のお客もその晩は会場の豪華ゴルフクラブに宿泊され、打ち上げなどもあったようでしたが、二人で藤野さんやあらさんに御挨拶させていただいた後、S氏に石狩当別駅まで送ってもらって、そこからは往路と同じく札沼線で帰りました。

翌日4日の土曜日は独り自転車にてのやへ。思えばのやもその時が4月以降初めてでした。到着早々お店の前で藤野さんと壺井さんがアイスか何かを買って戻られるところに出くわすということがありました。この時を初めとして、その後も自転車で来たのを目撃されては、お近くなんですか、いえ少し遠いんですけどといったやり取りを何人かのミュージシャンの方々と繰り返すことになります。

店内では木曜にhataoさんと共演されたばかりの小松崎健さんがカウンターにいらしていて、毎日のようにお会いしますねとお声かけくださいました。ライブスペースを指さしてまだ開場前ですからこちらで待つといいですよとも。民俗音楽がお好きなわけですかとのお尋ねに、全然詳しくはないのですが、偶々の機会にいいなと感じたものに通っているうちに−といったお答えをしたと思います。
道南や千葉に住む間にもCD注文などの度に温かい言葉を沿えた返信をくださっていたので、名乗ったら思い出してくださるものかしらなどと思いつつも当時はそんなやり取りをさせていただいていました。

また、テーブルでは東京でよくお見かけしていた方々が食事をしておられ、北海道まで追いかけてくる熱意に感心させられたことでした(あまり人のことは言えませんが)。ライブの時はお隣になって、さすがにだまっているわけにもいかず、初めてきちんと御挨拶させていただきました。

今にして思えば打ち上げも行われたのでしょうが、当時は参加するなどとは想像を絶することでしたので、この日も翌日に備えて早くに帰りました。遠来のお客様方は参加されていたのでしょうか。

翌日5日の日曜日は滝川駅で再びS氏と合流し、S車にて富良野へ。夢の終わりが近づいていました。

早くから教えていただいていて、北海道に異動が決まってからは、赴任するよりも前から祈りのように救いのように待っていたオオフジツボの来道でした。
しかも、後に「モノクローム」と名付けられた太田さんの新曲や、2日目以降披露されたスコティッシュの難曲Reel Set #3を伴って。Reel Set #3は練習では最後までたどり着いたことがなく、のやでの本番が初完奏であったとか。
2日目以降となった御披露は、地元町民の方々が中心だった初日に対し、北海道や東京のゆかりの方々が多数おみえになったこともあってだったのでしょうか。最後の富良野の夜、来てくれると思って練習した旨のことを藤野さんがおっしゃってくださって、不肖この私もその中に入れてくださっての御発言かなあと思うと、その時も嬉しかったですけれども、今こうして書いていてもじんとします。

そしてそれはaasian kukka最後の2日間でもありました。きちんとアンテナを張っていれば東京にもいらしたことがあったのに、私にはようやくの機会が最後となりました。お二人別々には拝見していたのですが。

以前にも書きましたが、どこか張り詰めたような感覚の中での粛々とした進行、のやでの涙、野良窯での笑顔、今でも覚えています。最後皆さんでの合奏で美しい花が咲きました。

扇柳さんには富良野で『はなのあめ』にサインをいただきました。あらさんも当別でも富良野でも晴れやかな表情で我々にもずいぶんお話し相手をしてくださいました。最後S車が発進した時は藤野さんが手を振ってくださいました。

翌月曜日には仕事を控え、開演時刻からは終演後その日のうちに札幌に戻れるか微妙だったのですが、野良窯での盛り上がりには物理的にも心情的にも中座することは難しく、結局当時滝川のS氏宅に宿泊させてもらい、早朝の始発で札幌に向かってそのまま仕事に就いたのでした。

近しく感じていた方々が北海道にいらしてくださって去られる時には最近でも感じることですが、この時も夢が終わり祭りの後を迎えたような感慨を覚えました。

すぐ1週間後の日曜の昼下がりには北区のアガペであらさんのソロライブがありました。経営者が変わったためか、アガペではその頃を境にあまりライブが行われなくなってしまったようで、私が訪れたのはその時だけになります。

北24条界隈は学生時代に毎週末フードセンター(現マックスバリュー?)に食材を買い出しに行っては近くに下宿する友人宅に寄ってああでもないこうでもないと無為ではあっても楽しい時間を過ごした土地でもありました。

あらさんのオリジナルや「イェプアの行進曲」に「ラウノのワルツ」といった名曲の数々を、1週間ばかりの間にaasiann kukka、オオフジツボとの共演、そしてソロでと繰り返し聴くことができ、同じ曲が様々に色合いを変えて感じられるあたりの味わいが見えてきたようで興味深く感じました。
アガペでは「イェプアの行進曲」でしたか、あらさんが御自分でコーラスをつけて奏でておられたのが新鮮でした。そのバージョンはその時しか拝聴していないのではないかと思います。

夢や祭りは終わってしまったかもしれないけれども、こうしてぼくらは生きていくのだといった感慨を覚えました。

更にその少し後、7月最後の日曜日に同じような感慨を抱えて訪れたのがガンゲットダイマでの初ロケットでした。その後よく路上で出くわすことになりますが、店の前の小路に入ったところで扇柳さんと遭遇したのを思い出します。
終演後にはユキさんが「トールさんのファンの方ですか」といった感じでお声かけくださり、MCで西永福の「商店街」のお話があったこともあって、自分も今春北海道に戻ってきたところであるなどと、私には珍しく初回からけっこうお話させていただいたきました。

折しもロケットが本格発射して各所で盛んにライブ活動が行われた時期と重なり、後に私もかなりの頻度で訪れることになります。S氏が札幌に来たときに案内する機会もありました。
そのような中で翌年にはJJFとの共演なども実現して嬉しかったものです。

そして2年が過ぎての冒頭に書いたジャックライブだったのでした。

ただでさえ1週間遅れの日記が、書いているうち2年遅れの日記みたいになってしまいました。
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