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2011年07月26日09:42

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2011年夏休み列車旅 10

☆ 原爆落下中心地・平和公園・原爆資料館(2011年07月25日(月))

本日最終日。

長崎に来て,そしてある程度まとまった時間がある。
となれば,私が行くべき場所は,グラバー園でも孔子廟でもシーボルト記念館でもない。

路面電車にて,まずは茂里町電停へ。
ここのバスターミナルが,空港連絡バスの始発地になっている。
それで,ここのコインロッカー荷物を入れて,またまた路面電車にて,今度は松山町電停へ。

この電停からすぐのところに,原爆落下中心地,いわゆるグラウンド・ゼロがある。
(私は,2001年9月11日の同時多発テロ事件でのニューヨーク世界貿易センタービルを「グラウンド・ゼロ」と呼ぶことにつき,多大な違和感を持っている。何ら特定の修飾語をつけずに「グラウンド・ゼロ(爆心地)」という場合,それは原子爆弾の落下中心点を意味するものであるべきだ。)

1945年8月9日午前11時02分,この原爆落下中心地の上方約500メートルで,原子爆弾が炸裂した。
そして,約15万人が命を落とした。
あの日の気温は28.8℃,湿度71%,風速毎秒3m。
今日のような猛暑ではなかっただろうけど,きっと,蝉は鳴いていたのだろう。

平和公園にまわってみる。
あの有名な,平和祈念像がある公園。
8月9日の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典の会場設営工事が行われていた。
この工事,毎年この時期に行われているのだろうか。
毎年行われる式典の会場設営のために毎年工事をしなければならないというのは,ちょっといかがなものかという気がしないでもない。

かの平和祈念像(北村西望・作)のいわれについて,もう一度,復習。
約10mの,青銅男神像。
上方を指した右手は原爆の脅威を示し,
水平に伸ばした左手は平けく安けくと平和の進める姿であり,
頑丈な体躯は絶者の神威を示し,
柔和な顔は「神の愛」または「仏の慈悲」を表し,
軽く閉じた目は戦争犠牲者の冥福を祈っている姿。
折り曲げられた右足はめい想即ち静,
立った左足は救済即ち動,
何れも神仏の特性を表現したもの。

引き続き,原爆資料館へ。
長崎に投下された原爆の,被爆関係の資料が展示されている。
しかし今回,私の胸に最も深く残ったのは,原爆被害に特有の事象ではなかった。

当時8歳だった女の子が,後に残した手記。
たしか,こんな内容だった。
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その日は母と一緒に防空壕に入っていたのだけれど,お母ちゃんは畑からきゅうりを取ってくると言って防空壕の外に出て行った。
そこで,ものすごい音がした。
お母ちゃんがいつまでたっても戻ってこないので,防空壕から出てみると,そこはまるで別の世界になっていた。
知らず知らずのうちに,山のほうへ向かって歩いていた。
近所の親しいおばちゃんが私を見つけてくれて,一緒に連れて帰ってくれた。
夜,おばちゃんは一緒に寝てくれた。
でも,お母ちゃんが私の名前を呼ぶ声が聞こえるような気がしてならない。
それで,おばちゃんに頼んで,一緒にきゅうり畑のほうに行ってみた。
きゅうり畑には,血だらけになった女の人の死体があった。
お母ちゃんだった。
吹き飛ばされてきた岩が頭にぶつかったのだろう。
翌日,お父ちゃんが帰ってきた。
しかし,10日後にはお父ちゃんも原爆症で死亡した。
心がバカになっていたのか,お母ちゃんの死骸を見つけた時も,お父ちゃんが原爆症で死んだ時も,涙は全く出なかった。

この頃になって,母や父のことを思い出して泣くことがある。
あのとき,私が涙を流していれば,母も父も生き返ってくれたのではないか,そんな気がしている。
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これはおそらく,原爆被害に特有の感情ではない。
原爆被害に限らず,理不尽に命を奪われた被害者の遺族たちが,抱く感情であるだろう。
しかし,被害者の手記のコーナーでこの手記の朗読を聞いて,不覚にも涙ぐんでしまった。

「私が涙を流していれば,母も父も生き返ってくれたのではないか」
あなたは何も悪くないんだよって,そう言ってあげたい。

人の命を理不尽に奪うからこそ,戦争や殺人は否定されなければならない。
このことを,忘れないようにしなければ,いつでも覚えておかなければならない。


☆ ANA670便(07月25日(月))
長崎1845−2025東京

早めに空港に着いてゆっくりしたいので,国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館(長い名称だな)の訪問は省略させていただいた。
またの機会に,必ず。

再び路面電車で,茂里町のバスターミナルに戻る。
本当は,長崎の路面電車でも最新鋭のノンステップ車両に乗りたかったのだが,残念ながらタイミングが合わなかった。
コインロッカーから荷物を出し,空港連絡バスの切符を買う。

ほどなく14時06分発のバスがやってきたので,いつものとおり左側最前列の座席に陣取る。
長崎市街地を出てから約35分で,長崎空港到着。

ふと思いついて,空港のレストランへ。
長崎のB級グルメといえば「トルコライス」だが,長崎市内では食べなかったので,ここのレストランにあるようだったら食べてみようと思ったのだ。
ちなみに長崎風トルコライスとは,とんかつ・サフランライス(ピラフ)・スパゲッティ・サラダを一つの皿に載せた料理のメニュー。
空港レストラン「エアポート」のメニューにあったので,昼ごはんとしていただいた。

そのレストラン付近のロビーで,「水木しげる原画展」というのをやっていた。
漫画家の水木しげるさんと長崎とは,何かの関係があるのだろうか。
原画展のところには何らの説明もなく,詳しいことは分からなかった。

空港ではいつものように,エアポートラウンジに入って一休み。
国家公務員共済組合連合会(略称KKR)の会員向けクレジットカードはUFJのゴールドカードになっているので,大抵の空港のラウンジが無料で利用できる。
というか,私の場合,この特典目当てにKKRのクレジットカードを取得したと言っても過言ではない。
そんなわけで,ラウンジにて携帯電話を充電しつつ,PCを開いてキーボードをパコパコ打って過ごす。

ラウンジの使用時間は2時間まで,これを超えると追加料金を取られる。
というわけで,おおよそ2時間になろうというところでPCをしまって,保安検査のゲートをくぐって搭乗待合室へ。

飛行機は,羽田の着陸待ちが混み合っている関係で5分遅れて離陸するという。
全日空の国内線機内サービスではお茶と水とジュースしか出ないはずなので,ペットボトルの飲料を買い込む。
と,何となくお茶のペットボトルを買ってしまったのだけど,お茶だったら機内でももらえるのだから,あまり意味がなかったかな。

そうこうするうちに,飛行機搭乗。
機内は案外,すいている。
ざっと見た限り,搭乗率6割という感じかな。
まあ,平日の夕方の便だからそれほど混雑しないということか。

飛行機に乗ったときの私の楽しみは,機内オーディオサービス。
特に,落語の番組。
全日空の落語チャンネル「全日空寄席」は,以前は実力派をそろえていて外れがなかったのだけど,最近はちょっと質が落ちている印象。
今回は,林家鉄平「紀州」と桂南光「佐野山」。
南光の噺はそこそこ安心して聞けたのだけど,鉄平は。
はっきり言って,酷い。
さすがは,あの昭和の爆笑王,先代林家三平の弟子だけある。
「掛布に似ているってよく言われる」とか,「御三家は橋幸夫ビクターレコード・舟木一夫コロムビアレコード・西郷輝彦クラウンレコード」とか。
まあ,浅草演芸ホールでの公開録音だったというから,ひょっとすると客層にあわせて古めのネタで演ったのかもしれないけど。
林家三平−こん平の直系には,はっきり言ってろくな噺家がいない(せめてまともに聞けるのは当代・正蔵くらいなものか。たい平の噺はまだ聴いたことがないので分からないけど)。
あんなのが「真打ちでござい」っていっていられるのが,江戸前落語業界の問題点なのかもしれない。

かつての私の愛読書,10歳から100歳までの子どものための童話シリーズ(おとなとこどものための童話シリーズ)の「さびしい乞食」(北杜夫・著)の中に,こんな一節があった。
「夜の飛行は孤独を呼ぶものです。そして,その孤独の中で,人はふだん忘れかけた何ものかを思いだすものなのです」
それで,私は孤独を感じたかというと,今回はそんなことはなかった(^^;。
多分,それほど夜更けの飛行ではなかったこともあり,客室内の照明が滅光されなかったからだろう。

眼下にディズニーランドの花火が見えて,お台場の観覧車が見えて。
そして程なく,羽田空港に着陸。

ちょうど良い時刻の空港連絡バスがある。
これに乗って,我が魔窟に戻ろう。

今回の休暇は,これにておしまい。


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