mixiユーザー(id:2230648)

2011年02月06日17:21

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こむづかしいお話。

かつて読んだ中島梓さんの評論で
「ひとは,真に他人の話を聴くことはできない」
ということを論じているものがあった。
「人は,基本的に『私は…』と喋らずにいられない。聞き上手,といわれている人間で,ただ単にあいてにあまりにも関心をもっていないので黙っていられるだけ,という人間はいくらもいるのである。」
(中島梓「わが心のフラッシュマン」ちくま文庫 213頁)

だとするならば,この世の中で起こっているいろいろなできごとに際して意見を述べるという営みは,そのできごとを通して自らを語っていることに他ならない。

そして,自分の意見を語るというそのこと自体は決して悪いことではないはずだ。
ただ,そこで語られる意見の基礎となっているものが自己の経験という狭い事象に限定されている可能性を,常に意識しておく必要がある。
だからこそ,他者の意見に触れ,他者の経験を様々な方法で追体験することが重要になってくる。
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例えば。
教育というテーマは,多くの人にとって自己の意見を表明しやすい分野のように思われる。
すなわち,ほとんどの人は成人するまでの課程で,どこかの学校にも行き,何らかの教育を受けているだろうから。
自己の経験に基づく意見を形成しやすいわけだ。

教育現場の荒廃,とか,教師の質の低下,とか,「教育」「学校」が今も昔も社会の主要な関心事であり続けているのは,そういう,誰もが経験したことのある事象だから,という側面があるのだろう。
でも,本当に現在の「教育」「学校」問題について語ろうとするならば,過去に経験した「教育」「学校」ではなく,現在の「教育」「学校」の状態を正確に把握する必要があるはずだ。
そして,私を含めた多くの人たちは,その現状把握ができていない。
子を持つ親にしたところで,把握できるのはせいぜいが,自分の子どもの属する学級・学校・学区・地域についてのみであろう。
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教育というテーマは一例に過ぎないけれど。
ほとんどの人が,当初は自己の経験を基礎とする意見しか提出できないのだとすると。
多くの人がそれぞれ自己の経験に基づく意見を出し合って,その意見交換の中から共通の現状認識とその解決策とをあぶり出していく,というのが有益であるとはいえるだろう。

そこで重要なのは,他者の意見に対する寛容と他者の意見の受容,ということだろうか。
とりわけ,他者に対する中傷を避けるべきことに,注意しなければならない。
「こんなことも分からないのか」とか「こんなことは常識だろう」とかいうのは,もってのほか。

ネット上の殺伐とした言葉の応酬を読んでいると,自己の経験に基づく意見にとらわれていては,何も生み出さないし自己の進歩もあり得ない,ということが見えてくるように思える。
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