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2009年08月24日02:35

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生と死

○競争馬が脚部骨折すると殺されます。

動物愛護の精神に反するでしょうが、でもその馬はもう馬として生きる
ことが出来ないのです。

○脳死にある人間を生命維持装置で生きながらえさせるのは?

難しい生命倫理の問題を無視させてもらえば、自然に従って死なせて
あげるべきだと私は思います。

○治療の見込みの無い戦場で苦しむ戦友を楽にする為に殺すのは?

戦争映画でよくあるシーンですが、生かす事は最優先ながら、選択肢の
一つだと私は思います。

○死にたい人は?

生きている事が苦痛で仕方がない人がいます。
死は、選択肢の一つとして存在していて良いものだと思います。

実は死は身近なんです。
生きてる限り必ずいつか死にます。
私は死は私の選択肢の一つとして自分自身で認めています。
だから、まだ生きています。
意味が分からない理屈のようですが、それが事実です。

死にたいと思わない人間に、死にたい人間の権利を奪う資格はありません。

生が絶対善、死は絶対悪。
そんな、意味不明な刷り込みが世界を覆っています。

生きられた人間は幸福なんです。
それを感謝しないといけないとは思います。
でも、生きられない人間もいたりします。
その人間を否定する事は生命への冒涜も同義です。

願わくば、より望んだ形の死を迎えたい。
私の願いは、その程度でしょうか。。
かといって、どういう死であってはいけないとは全く思わない。

自殺したい人は自殺してもいいのだと思うのです。
そう、死を肯定的に捉えたならば、よりよい死を選ぶ心の余裕が
出来るのです。
心の余裕が出来たならば、望まない死は選ばないものです。
それでも死を望むのならば、それは本当に「辛い生」なのでしょう。
苦しみから解放されたいのでしょう。

拷問を受けながら苦しむ人に、「死はいけない事だから、あなたは
死なずに拷問を受け続けなくてはならない。」と言えますか?

でも、今の世の中の「生の絶対善」信仰には、死なずに苦しみ続けろと
言い放つがごとき無責任な残虐さを感じるのです。
そしてそれと同じ無責任な残虐性が多くの人を自殺に追い込んでいる。
一方的な正義を押し付け、一方的な正義を押し付けられた人間の苦しみを
解せない「偽善者」が窮屈で生きにくい世の中にしている。

死んでも良い。
そう、いつでも。
だったら今じゃなくても良い。
もうちょっとマシな死に方が出来るまで生きてみよう。

そうやって私は今日も生き続けています。
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