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2019年05月25日22:59

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「忖度された被災者の意思」は不謹慎厨の「卑しさ」をそのままに表示することになる

■「不謹慎狩り」の犯人は? 戦時中すでにあった「ネット世間」の原型 この不毛なゲームやめるには……
(ウィズニュース - 05月25日 07:00)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=220&from=diary&id=5634228


行為に対してその行為の意図を己の中での最も最悪なものと汲み取り、言い返されれば己の都合のいいものに永久に変換していく点では、ある意味加藤智大の系譜を歩いているといっていいだろう。指摘する理由が後付けになるということは、目的が逆転していることになる。
己の言説の正しさのために、己の頭の中の焦点の影法師である「他人」が精神的にさげすめられることを望み、精神的にさげすめられることに悦びを感じる倒錯的な人間に映る。

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今のトレンドは不謹慎厨狩りと、不謹慎厨狩りにポストセブンでケチをつけたオバタカズユキ狩りだったりしてな。
とつぶやきで書いたけど、実際ツイッターで検索すると、そんな感じだもんな。カマトトぶったやつ、ツイッターってずいぶん溢れているんだな、って感心もした。

さて、行為の指摘に正当化を求めた輩の行き先は、理由作りになる。

「不謹慎厨」本人だけがなると思い込んでいる、不謹慎厨の焦点に描いた存在しない影法師が「精神的にさげすめられる認識」を抱くことが必要になり、その認識は不謹慎厨本人が「精神的にさげすめられるように振舞う」ことで得られるわけであるから、自ら阻害される振る舞いを続けるようになる。

そこに一般ユーザーのネチケットや言い方など、介在する要素はない。
それらを要求する振る舞いは、不謹慎厨に媚びへつらうように振る舞えと言っているのと同じことになる。

秋葉原事件の加藤の話が出たが、あれは、自分のユニフォームがなくなったのを自分の解雇のシグナルとして勝手な妄想解釈をしておいて他人を殺して挙げ句の果てには母親の教育に押し付ける、腐った人間の見本でしかなかった。

加藤智大死刑囚は、勤務先の工場の更衣室で自分の作業着が見当たらなかったことを「解雇」のシグナルだと解釈した。
同じことを自分の勘違いだと思う人もいるだろうし、同僚のいたずらだと思う人もいる。
そのなかで、加藤智大死刑囚に類する人間は、選ぶことのできる解釈のうちの「最悪のもの」を選択する。

ひとつの出来事の解釈可能性のうちから、自分にとってもっとも不愉快な解釈を組織的に採用すること。

これは事実レベルの問題ではなく、物語レベルの問題であり、この「ひとつの出来事の解釈可能性のうちから、自分にとってもっとも不愉快な解釈を組織的に採用すること」は私たちの社会では「政治的に正しいこと」として、強く推奨され、現に不謹慎厨はそれらを強く採用し、振る舞い続ける。

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”あなたは間違えてる”はだいたい”君の考え方が気に食わない”だし”あの人が傷ついているじゃないか”は”僕の気に入らないことをするな”だし、太宰治に言わせれば”世間が許さないのではなくて、それはあなたが許さないのでしょう”だろうと思う。
http://tamesue.jp/20150505/

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彼らには、わかりやすい外形的な特徴がある。
「首尾一貫性がない」ということ。

例えば、イギリスの国家意思自体は、国益の最大化という意味では首尾一貫している。
彼らは、「こんなことをしたら、かわいそうな被災者等が喜ぶかも知れない」と思って、走り回っている為に、動線には法則性がない。

何故ならば、彼らが「対象」と呼んでいるものは、彼らひとりひとりの頭の中に像を結んだ「幻想」でしかないから、となる。

「不謹慎厨が『被災者』だと思っているもの」こそが、不謹慎厨たちにとっての「被災者」でしかない。

「被災者」が直接こちらに「指示」を出しているなら、その指示は権威付けされ、どの施策も首尾一貫する。

対照的に、不謹慎厨にとっての「被災者の欲望と推定されているもの」は誰によっても権威付けされない。
なぜなら、「言挙げされていない」欲望に焦点化しているのだから。

「いや、殿、その先はおっしゃいますな。
何、こちらはちゃんと飲み込んでおります。
ま、どうぞここは、この三太夫にお任せください」

これがその本懐といってもいい。

「みなまで言わずと」的制止のあとに「殿の意思」として推定されるのは、多くの場合、「三太夫の抑圧された欲望」である。
三太夫は「私が殿の立場だったら、きっとこう考えるだろう」ということを推定する。

彼は、相手の欲望を読み取っていると思っている当のそのときに、「自分の欲望」を語る。

「せこい」やつが対象の意思を想定すると、対象は「せこい性格」を持ったものとして観念される。

不謹慎厨が「被災者の意思だと思っているもの」は、それぞれの
「もし自分が被災者だったら、へこへこへつらってくる人間に向かって何を要求するか?」
という自問への答えの部分でしかない。
ここまで、「そういうこと」と書いてきたのは言わずもがな「忖度」となる。

即ち「忖度された被災者の意思」は不謹慎厨の「卑しさ」をそのままに表示することになる。

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この手の他人に行動意思を依存する人間の行動基準は「模倣」となる。

「大衆とは、自分が『みんなと同じ』だと感ずることに、いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると感じてかえっていい気持ちになる、そのような人々全部である。」(ホセ・オルテガ・イ・ガセット、寺田和夫訳『大衆の反逆』 中央公論新社(中公クラシックス)、2002年)

他人に行動意思を依存する人間の行動則は、「他人と同じであるか、どうか」のみとなる。

つまり、何らかの上級審級に照らして正邪理非を弁ずるということをしない。

「みんながやっていること」は「よいこと」で、「みんながやらないこと」は「悪いこと」というのが大衆のただひとつの基準である。

たしかに、上位審級(法律とか道徳とか宗教とか哲学とか)だって、ある程度までは「みんな」の支持を取り付けないと実効的には機能しない。
少数の人間が「絶対これがいい」という選択肢と、多数の人間が「別にこれでもいいけど」という選択肢があった場合には、後者を選んでおく方が安全、というのは、たしかに経験則としては有効となる。

しかし、『大衆』、つまり「他人に行動意思を依存する人間」がこれほどあしざまに批判されるのかというと、問題は「みんな」という概念のふたしかさに起因するから、となる。

ある程度世間を見てきて、世の中にはいろいろな人間がおり、いろいろな価値観や美意識や民族史的偏見やイデオロギーや臆断があるということを学んできた人間はめったなことでは「みんな」というような集合名詞は使えないということがわかってくる。

逆に、世間が狭い人間は軽々に「みんな」ということばを使う。

「他人に行動意思を依存する人間」の知っている「みんな」が考えていることは、その事実により「常識」であり、「みんな」がしていることは、その事実により「規範」たりうる。

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