「関ヶ原・山中の戦い」なぜ小早川秀秋は「逡巡して裏切った」汚名を着せられたのか
https://news.yahoo.co.jp/articles/8dae040801cfcd83c1ba20372e8f33dcd358b0d9
最近は「秀秋は迷うことなく開戦直後から東軍として動き、そのおかげで関ヶ原はあっという間にケリが付いた」という説が有力で、それを踏まえた上で「秀秋が勲功第一だと体裁が悪いので、優柔不断だったという話を幕府が流布したのではないか」みたいな話。まぁありそうな話ではあるだろうと。
秀秋の性格を批判している藤原惺窩は、林羅山の師匠である当時のナンバー1儒者。朱子学大好き過ぎて、朝鮮出兵の際に捕虜になって日本で抑留されていた朝鮮人儒学者の姜�櫃法◆崙�本はクソ。儒教の国である朝鮮と明に日本を占領してほしい」と言い出したことが伝わっているアレな人。
一方の秀秋というと、朝鮮出兵の際にハッスルしすぎて、残虐な行いがあったとされている人物。朝鮮びいきの惺窩からすれば、鼻白むものはあったのかもしれない。
秀秋が比べられている「兄」は、おそらく惺窩と親交のあった木下勝俊(※勝俊はねねの兄の長男で、秀秋は五男)。いかにもインテリから好かれそうな文人肌の人だったのだけれども、関ヶ原の際に鳥居元忠を置きざりにして伏見城から逃走し、戦後に責任取らされて所領を没収されている。
この勝俊の逃走劇にブチ切れて、三行半をつきつけたという嫁さんは森可成の娘。まぁ森一家は「武士ならとりあえず戦って討ち死に」みたいな家風なので、勝俊の行動には納得できないものはあっただろうなと。
勝俊と秀秋、どちらを評価するかは価値観次第だろうと。
話は変わるのだけれども、惺窩と親交あった武将の一人に赤松広秀(※生涯で何度となく名前が変わっている)がいる。嫁さんが宇喜多秀家の妹ということで、西軍方に付いて細川幽斎の城を囲んだりしていたのだけれども、西軍本隊が関ヶ原で敗北。
で、途方に暮れていたところに東軍方の亀井茲矩の勧誘を受けて、西軍についた宮部長房の鳥取城を攻めて、それを手土産に東軍に降伏しようとした…が、うっかり鳥取城下に火を放ってしまったことが問題になると、亀井茲矩に責任を全部おっかぶせられてしまい、切腹することになってしまった みたいな末路。攻められた側の宮部長房は先日に日記で書いている。
※宮部長房 の雑感
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1986381587&owner_id=16600073
関ヶ原は群像劇として秀逸だよなと思う。当事者たちからすれば溜まったものではなかっただろけれど。
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