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2022年08月18日21:04

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安物の代名詞だった日本製ブラウス、森英恵さん「自分の服でイメージ変えたい」

安物の代名詞だった日本製ブラウス、森英恵さん「自分の服でイメージ変えたい」
8/18(木) 5:00 読売新聞 配信より

安物の代名詞だった日本製ブラウス、森英恵さん「自分の服でイメージ変えたい」(読売新聞オンライン) - Yahoo!ニュース 配信より

https://news.yahoo.co.jp/articles/2a8bf3dbcf343eda7061e813cc92bfa14cb06dec?page=2

最後のオートクチュールコレクションを終えてモデルとともに登場した森さん(中央)と孫の泉さん(右)(2004年7月)

11日に96歳で亡くなった森英恵さんは、戦後復興期から活動し、世界を舞台に活躍。日本のファッションの存在感を示し、一時代を築いた。

【写真特集】追悼・森英恵さん…日本の美を発信、皇后さまのドレス・日航の制服

世界にはばたく原動力となったのは、1961年にニューヨークで受けた衝撃だ。日本製のブラウスが、「ワンダラー(1ドル)ブラウス」と呼ばれて安物の代名詞として百貨店で売られていた。オペラ「蝶々夫人」では日本人が惨めに描かれていた。

(写真:読売新聞)

「自分の服で、日本のイメージを変えたい」と決意。4年後、同じニューヨークで初めて開いたショーでは、チョウをあしらった華やかなドレスなどを披露し、高い評価を受けた。海外にも顧客を増やし、服だけでなく生活用品にまでビジネスを広げた。

 世界に通用する先駆者としての活躍が、三宅一生さんら後に続く世代につながっていった。

 私生活では、2人の息子を育て、働く女性の草分け的存在だった。孫でモデルやタレントとして活躍する森泉さん、森星(ひかり)さんらと一緒にテレビ番組に出演するなど、優しい祖母の顔も見せていた。

[評伝]1ミリの違いにこだわる「先駆者」
 30年にわたる取材で、一度だけ森さんが涙を流す場面があった。1996年、文化勲章の受章談話を取材中、話題は直前に亡くなった夫の賢さんに。「外で働いていると敵もたくさんいるし、つらいこともある。でも、亭主は戦友。いつも信頼してくれたのが支えでした」。その後は、言葉にならなかった。

 敗戦国日本から、世界で勝負できる日本にしたいとの信念で突き進んだ。「日本人初」「女性初」という枕ことばがついて回り、計り知れない苦悩やプレッシャーがあったはずだが、口にしなかった。それだけに、先駆者として時代を切り開く厳しさを初めて垣間見た気がした。

 「日本人の女性デザイナーがどこまで通用するか」。挑戦の場に選んだのは伝統あるパリ・オートクチュールだった。「東洋と西洋の出会い」をテーマに、歌舞伎や鶴など日本的なモチーフや素材を取り入れた服をデザイン。1ミリの違いにもこだわる完璧さで、世界が認める美へと昇華させた。

「ファッションは、ある時は勇気を与え、冒険させてくれるもの」と語り、戦後の日本女性に希望を与えた。ライフスタイルを敏感に読み、着やすく前向きになる既製服を作った。昨年12月には、本紙連載「時代の証言者」を読んだ多くの女性から「今も大事にしている」と手紙や服の写真が送られてきた。

 遺族が旅立ちの服に選んだのは、長年愛用していた白のスタンドカラーのブラウスに黒の上着。最期までファッションデザイナー、森英恵だった。(編集委員 宮智泉)

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最終更新:8/18(木) 12:54 読売新聞オンライン

私のコメント : 令和4年8月18日、国際的ファッションデザイナーで、文化勲章受章者の森英恵さんが令和4年8月11日、東京都内の自宅で死去した。96歳。島根県出身。島根県 益田市 グラントワで 森英恵さんに、お会いしたのが、お目にかかった最後となった。森英恵さんと接していた当時のことを追想しながら、ここに、心より、森英恵さんのご冥福をお祈り申し上げます。
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