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2021年02月19日18:59

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高山岩男著『世界史の哲学』における歴史哲学的思索の意義 その三

第三章 歴史哲学と絶対無
高山は、「世界史の中に存するものは凡て相対的なものであり、相対的なるが故に却って連関して世界史の発展を構成するのである。世界史は相対的なると共に絶対的であり、絶対的なると共に相対的である。世界史は絶えず発展進歩していると共に、その都度永遠の今から永遠の今へと飛躍的に連続している。世界史は完成と未完成との連結である。」と語っている。そして<世界史の理念>においては、それぞれに独自性をもつ個性的な特殊的世界史が相互に連関しながら、それらの特殊的世界史が普遍的世界史に包含されるという仕方で、特殊的世界史と普遍的世界史との関連において成立してくるとする。そのような意味において現代世界史において真なる世界史的世界の出現の堵についたと語っているのである。しかしながら歴史的現実においては�猊疂彭�世界史�瓩箸い錣譴�<普遍性>はどのようにして保たれるのであろうか。歴史的現実世界において�猊疂彭�世界史�瓩箸い錣譴襪發里發泙拭△�つての近代世界史におけるヨーロッパ世界のように、一つの�狷端貪�世界史�甓修掘∩蠡于修靴討靴泙Δ里任呂覆い世蹐Δ�。�猊疂彭�世界史�瓩砲�ける<普遍性>は、何によって絶対性が保たれるのであろうか。つまり向山は�猊疂彭�世界史�瓩砲�ける<絶対的普遍性>をどこに見出すべきなのであろうか。
 高山は、「絶対的普遍性とは、内容を入れるとき直ちにその時代の世界性に過ぎなくなるような有ではあり得ない。歴史的歴史性を超出せる絶対的普遍性とは、限定的に名づくからざるもの、即ち絶対無」であるとする。そして�狎簑侈記瓩叛簑个箸蓮崟こΔ鯆興个擦襪發里任△蝓�永遠は時間を超出せるものである。一般に歴史の相対性の意識の成立する深い根拠はここにある。普遍的世界史をもなお相対化し、歴史的時代性を有するものとする根拠は、やはりここにあるのである。」とする。�狎簑侈記瓩�普遍的世界史と考えられてきた世界史そのものを相対化し特殊的世界化することにおいて、さらに新しい世界史的世界をそこに開明していくのである。普遍的世界史を相対化して特殊的世界史とするということは、それまで普遍的世界史と考えられていた世界の相対性を徹底的に自覚すると共に、そのような相対的世界をそのままに成立させている絶対的普遍的世界を自覚することにほかならないのである。そのような自覚ならしめるのが、まさしく�狎簑侈記瓩覆里任△襦9盪海�「真の絶対は相対に顕現し、相対を自己の内実とするものである。世界史こそ絶対・永遠の顕現の場所である。」と論じる所以もそこにあるであろう。
 では、このような�狎簑侈記瓩箸呂匹里茲Δ卜鮖謀�現実世界を超出してくるであろうか。�狎簑侈記瓩販鮖謀�世界の関連が問題となってくるのである。高山は「歴史の根本義は世界の創造、宇宙の創成にある。歴史とは宇宙の創造に参ずる人間の活動に外ならない。」とする。世界史は国家によって形成されていく。国家はまさしく世界史的概念である。しかしながらその国家は人間によって歴史的世界より建設され、また人間によって歴史的世界の中に滅亡していくのである。高山は、「歴史は絶対無に於て絶対無を無時間として自己に窃取しようとする自然意志との葛藤を媒介し、絶対無を歴史を超出せる真実の絶対無として顕現する人間の創造的活動である。絶対無が絶対無たるは我々人間の歴史的活動によるといってよい。」とも論じているが、�狎簑侈記瓩�歴史的世界に超出するのは、人間の歴史的行為を媒介することによってなのである。高山は、このような人間の歴史的行為を、「歴史の創造によって宇宙の創造に参ずる人間の活動は、それ自体宇宙創造の神的意志の発現に外ならない。」といい、「我々人間は参与するのである。」とするのである。そして神的意志によって歴史を創造しながら、しかも歴史を超出している永遠こそが、絶対無なのである。したがって人間の歴史的行為はどこまでも絶対無に接していなければならないのである。
 では、我々人間は歴史的行為においてどのように絶対無に接しなければならないのだろうか。高山は「絶対無は我々人間主体の背後にあってこれを包み超えたものである。このような絶対無を有として分別的に捉えるとき、それは時なき永遠として歴史に相対的・対立的なものである。ここに歴史の創造を否認する自然意志が出現するのである。歴史否認の自然意志は時を否定する意志であり、永遠を単に永遠として欲する空虚な執着である。それは絶対無を客体化する無明に生誕する。」と語る。我々人間の実存的現実は、一回的・唯一的であり、どこまでも有限的なものである。そしてこの一回的にして唯一的、有限的であるというところに我々人間の実存的現実が歴史的であると同時に永遠的であるという所以があるのである。しかしながら我々人間は歴史性なき永遠性を求めようとするのである。自己の実存的現実を一回限りの有限的なものとは認めず、つねに限りなく永遠であることを欲するのである。この場合に我々人間が欲しているのは、有限性と相対化した無限性であり、そのような無限性は単なる一つの有限性にほかならないのである。このようなことを高山は�猯鮖砲料和い鯣歿Г垢觴�然意志�瓩任△襪箸垢襦�むしろ自己の実存的現実が有する歴史性そのものに徹底し、歴史性を否認する自然意志の障碍を突破していくところに、我々人間の歴史的行為、あるいは歴史の創造があるのであるとする。そして我々人間が「あくまで私心を棄て去るものとして」絶対無に接していくときはじめて人間の歴史的行為は、「ひたすら絶対無の主体的根源より生まれ出るものであり、この意味で歴史の創造は絶対無が自己否定を媒介として自己を顕現する働きそのものに外ならない。歴史創造の行為は最も能動的で而も全き受動性に存するである。このような行為の主体として、刹那に永遠を現成する者が、いわゆる歴史的個人に外ならない。」とする。
歴史的世界は、どこまでも我々人間が絶対無と自然意志との間の境に立ち、自然意志の障碍を突破して、客体化された絶対無を真に絶対無としてその根源的主体として顕現させてくる決断を下すことによって創造していくのである。しかしながらその決断は�爐△�まで私心を棄て去るものとして�畧簑侈気亮臑療�根源より生まれ出るものであり、そこにおいて我々人間の歴史的行為の主体としての�猯鮖謀�個人�瓩�成立してくるのである。つまり、このような歴史的個人として我々人間の歴史的行為によって絶対無が歴史的現実世界を超出していくのであると、高山は語るのである。
高山は、�猯鮖謀�個人�瓩砲弔い銅,里茲Δ妨譴襦�「歴史的個人は最も強烈な個性をもつ意思的・行動的主体である。と共に、それは時代の趨勢を以て自己の運命と自覚せる勝義の歴史的人間である。そして歴史的個人は歴史的趨勢に生きることによって、却って歴史を超出せる永遠に接し、強烈な個性に生きることによって、却って絶対の普遍性を実現する者なのである。歴史的個人とは即ち歴史主義を徹底して絶対・永遠に接する者の義でなければならぬ。絶対と相対、永遠と時間との接触点に立つ者が歴史的個人であり、このような個人の行為によって永遠・絶対は歴史の中に現成し、歴史は永遠・絶対に接し得るのである。歴史的個人なくして歴史なく、従がってまた永遠もない。歴史と永遠との結びつく転換点が創造の立場であり、この創造の立場が歴史的個人の立場に外ならぬのである。」
このように我々が歴史的個人として歴史創造の業に参与していくとき、�犖什�の世界史上の大動揺、或は世界史の大転換�瓩箸蓮�近代的世界から現代的世界への転換であり、<世界史的世界>の出現ならしめるのであるとするのである。

結 『世界史の哲学』の今日的意義
 21世紀を迎えた我々にとっては、<世界史>という言葉よりも、<地球>という言葉が身近に感じられるようになったように思われる。
 今日の我々自身の生存を取り巻く自然環境の問題は、もはや国家というレベルの問題ではなければ、特殊的世界というレベルの問題でもなくなっているだろう。むしろそれらの国家や特殊的世界がそこで成り立っている、まさしく<地球>という宇宙船の存続に関わる問題となっているのである。
 しかしながら、そのような自然環境に関わる問題においても、先進国と後進国といわれる国家間の問題認識のズレや対立、あるいは先進国内でも国家のエゴというものを感じずにはいられない。たとえそれが<地球>という宇宙船の存続そのものに関わる問題であろうとも、我々はその問題に対してやはり国家を媒介としなければならず、あるいは国家そのものがこのような問題の障碍となっているともいわなければならないのである。
 では、このような歴史的現実に対して、我々はどのように対応していければよいのであろうか。我々が生きている現代は、未だ人類が経験したこともないほどに高度にしかも高速に発達した科学技術の世界であり、科学技術は我々の生命そのものに関わる問題となっており、神の領域にまで介入してしまっている現状にある。そのために科学技術の問題は我々に新たな倫理観を要求するに至っている。そしてそのような科学技術なしには我々の生活そのものが成り立ってこない水準まできているのである。
またこのような科学技術は倫理観の問題と相俟って政治的にも経済的にも問題化し、国家のあり方そのものにも大きな影響を与えるに至っている。さらには科学技術の問題は環境や生態系の破壊に大きな影響を与え、我々自身の生存を取り巻く自然環境の問題が<地球>という宇宙船の存続に関わる問題となっているのである。では、このような科学技術の問題にどのような倫理的な枠組を以ってして対応していければよいのであろうか。
今日の我々が直面しているこれらの問題は、新たな国家間や倫理観を要求してくると共に、どのように歴史を新たに創造していくのか、我々自身に深い歴史哲学的思索と歴史的創造の主体となっていくという決断と覚悟を問うているように思われる。
現代が孕んでいる歴史的課題をこのように自覚するとき、高山岩男の『世界史の哲学』は新鮮な生命力をもつ<試論>として輝きはじめる。『世界史の哲学』はこれまでいわゆる<大東亜共栄圏>に哲学的あるいは世界史的意義を与え、アジアをヨーロッパから解放するという名目の下で日本が行った大東亜戦争なる侵略戦争を美化するものとしてのみ批評されてきたように思われるが、はたして『世界史の哲学』はそれだけにとどまるのであろうか。むしろ我々が担うべき歴史課題とそれに対する歴史哲学的思索にとって今日よりもより一層今日的な道標となるように思われる。
書物には、時代を超えて新たな息吹を我々に吹き込んでくれる生命力を宿しているものがある。そしてその生命力は歴史そのものの根底を突破して再び歴史そのものを開明してくる深い思索力なのである。そのような生命力を宿している書物はいかなる時代においても歴史的生命の源泉となる。高山岩男の『世界史の哲学』もそのような歴史哲学的な生命力を宿しているように思われるのである。
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かつて高山岩男先生の『世界史の哲学』について私が書いたエッセイ「高山岩男著『世界史の哲学』における歴史哲学的思索の意義」を三分割にして掲載したものである。この頃より�犁�都学派の哲学�瓩虜読床舛�始まったように思われる。

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