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2019年05月04日13:22

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武内義範先生の宗教哲学

わたしがまだ30代後半だった頃に、燈影舎の編集参与をされていた恩師・原野栄二先生が編纂された『京都哲学撰書』(全30巻)のなかに、武内義範先生が入っていないことに気がついた。

『京都哲学撰書』とは、いわゆる�犁�都学派の哲学者達の著作�瓩鮟犬瓩徳苅械梓�にして世に問うたシリーズであるが、そのなかに武内義範先生の著作が一冊も含まれていない。原野先生もそのことに気がついておられようで、なんとかならないかと直接武内義範先生にお手紙をお出しになれていたようだが、当時、法蔵館から『武内義範著作集』の刊行予定があり、その著作集編纂作業との関係で著作権の関係で結局どうすることもできずに、武内義範先生の著作を入れることを諦められた経緯があったようで、燈影舎刊行の『京都哲学撰書』のなかには一冊も武内義範先生の著作は入れられなかったのだ。

しかし武内義範先生の宗教哲学は、京都学派の宗教哲学において独自的な位置を占めていると改めて考えるのである。これは過去にも引用したが小野真氏の『武内義範の宗教哲学』にある一節である。

「さて、西田、田辺、武内の浄土真宗に対するアプローチはそれぞれ共通点や異なった点を持っているが、武内の立場は、東西両思想を統合した固有の確立した立場を前提にして個別具体的宗教を言及するという志向を持つ西田や田辺とは大きな違いがあると思われる。武内は、むしろ浄土真宗という個別具体的な宗教的立場の哲学的解明を推し進めることによって東西両思想を統合する立場を生み出していこうとする。もとより、武内の研究は、親鸞思想の解明だけではなく、原始仏教、現代キリスト教神学、宗教哲学一般にまで多岐にわたるが、それらの探究の底流にも、常に宗教哲学的諸問題を解く根本的な鍵が親鸞思想の中にあることが意識され続けている。まさに『教行信証』の哲学的研究が武内の「生涯の課題」なのである。この点において〈武内は京都学派の本流に属しているのではなく、そこから少し離れたところに位置している〉といえよう。しかし真宗の信仰から出発しつつも、神学・教義学的独善に陥ることなく、親鸞の思索を柱として西洋諸思想との公平な哲学的対話、すなわち親鸞思想の批判(Kritik)を続け、それ自体が結局は親鸞思想による他の思想の総合的統合となるという彼の立場もまたユニークさと価値を持っているといえる。特定の信仰に生きる者が、信仰に妥当することなく、宗教哲学的思索を推し進め、西洋思想の対話を遂行する場合、彼の思索は、一つのモデル・ケースとして十分に吟味される必要があると思われる。」

わたしは今、親鸞思想から出発して、カント、スピノザ、クザーヌスと西洋哲学を遡り、テオーシスの問題からキリスト教会における�犹旭粍貘里凌性瓩虜陵僂忙蠅襯廛蹈札垢亡愎瓦鮖�ち出した。そこには人間がその信仰ゆえに、神といかに向き合うのか、向き合うことが許さるのか、わたしたち有限的存在たる人間が無限なる神について思索することができるのかという問いが問われ続けてきたからであり、まさにそこにキリスト教における�狄�仰の歴史�瓩魍栖峺�ることができるからである。

そしてキリスト教における�狄�仰の歴史�瓩�ら翻ってもう一度、真宗における�狄�心の歴史�瓩鮓�るときに何が見えてくるのか、そこにわたしの最大の関心事があるのである。

上記の小野真も引用しているが、ヤン・ヴァン・ブラフト氏の『武内先生とキリスト教』という論文で書かれている、「武内は京都学派の本流に属しているのではなく、そこから少し離れたところに位置している」という観点からもう一度、武内義範先生の宗教哲学がもつ意味、その価値を吟味してみたいと考えているのである。
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