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2017年04月17日21:23

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読書などする必要はない。

本が好きだ。まあ、正確には好きであった。
今は本を楽しむ時間的な余裕がない。それでも最近、東野圭吾の短編を買い、面白かったし、若干の失望も味わってはいる。

傲慢にも、他人よりも知的な部分が私にあるとすれば、それは幼少期の乱読が支えている。小説やら伝記やら戦記やら宗教本やら、置いてある本を端から読む勢いで読破した。で、飽きた。特に小説の底の浅さに飽きた。
それがせいぜい中学の時である。以降、知識になるような本しか読まなくなる。最近東野圭吾に感じた失望も、中学時代の失望の再確認である。私にとっては、文章で表現する限界というものを感じるわけだ。無論、ならば偉そうにせずにその限界を自分で超えて見せよと言われればなお道は昏い。


読書は他人の人生を追体験できるとあるが、それは所詮他人の箱庭である。ゲームや漫画との違いはない。読めば読むほど精神を害する発言小町であれば、よりリアルな「創作」により他人の人生をいくつも追体験することができる。同じ文章量の中に、100倍も多様な価値観を感じることができる。同じ作家が100人のキャラクターを描き分けたところで、それは同じ価値観の焼き直しにすぎない。

唯一読書に価値があるとすれば、純粋な文章を脳内で映像に組み立てる能力であろう。どれほどイラストが発達しようとも、もっとも濃い情報は文章で記されるので、この能力は文献を読み解くのに必要ではある。例えばメールでクレームを受けた時、その言葉の端々から、なんとなく状況が読めたりする。人によっては「なんだこのクレーム意味がわからん」と怒るようなものでもだ。しかし、実務で言えば、「どのような意味でしょうか、もう少し詳しくおしらせください」と返信すれば済むし、変に想像して間違うよりはその方が正解だ。


結局読書自体は、趣味として読書を選択する、という程度の意味しか持たない。類似の文章量を読んでいれば、相応に読解力は着く。ただ、学生にとっては読書は必須である。それは学校関係の問題が読書を前提として出題されるからだ。国文学の教授は掲示板の空気は読めないかもしれない。あくまでもそれと同じ意味で、学生は読書をするべきだ。

記事中にある中学生は滑稽だ。楽器を吹かねばならない学科に進むなら楽器を吹かざるをえないし、スポーツ特待生を目指すなら運動せざるをえまい。読書を前提とした出題が日常的になされる以上、読書をする必要があるし、読書なくとも国語で優秀な成績を残せるのであれば、しなくとも良い。

もう一つ滑稽なことがあるとすれば、読書をする自分が優れた人格であるかのような言説をすることだ。言っていることは宙返りができるゆえに我は素晴らしいというようなものだが、自称読書好きの人口は比較的多いのでそのようなことがまかり通るのは残念だ。それともそういう人物が読んだ本にはそういうことが書いてあったのか?と聞きたいところだが、文章を書いて飯が食えるような人間は猛烈に読書をしていることが多いので(笑、案外結構書いてあるかもしれない。



読書離れ進行「なぜ読書をしなければいけないの?」への回答
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=125&from=diary&id=4531740
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