民主主義というと国民が自分達の手で決める、という制度だ。
古くはアテナイに起源を持つが、参加者の政治的無関心により本質ではなくシンプルな好悪によって物事が決まってしまう衆愚政治に陥り、一旦は歴史から消える。
2000年の時を経て、王政の崩壊とともに再び民主主義の時代が幕を開ける。
人権という新しい概念を伴い、自由主義・資本主義に支えられて急速に枝葉を伸ばし、爛熟の時を迎えつつあると言ってもいいだろう。
民主主義はみんなで決めるのだ!と言っても、世の中には様々な意見の人間がおり、一筋縄ではいかないことは容易に想像できる。民主主義なんか嫌いだ!ダメだダメだそんなもの!という意見も、個々人の意見として尊重せねばならないのか。そんな葛藤から生まれるのが「戦う民主主義」という。各人の意思を尊重するけど、民主主義を否定するのはダメな!という概念だ。
この概念は、この記事からも窺い知れるように、世界的に一定の正義を与えられている。
「お前は民主主義に悖る!」というレッテルは、事実がどうであれ、政敵に貼り付けるレッテルとしては最上のものだ。だが個々人の意見をたとえ少数であっても尊重するのだという立場であるのなら、そのようなレッテル張りが民主主義と矛盾しないのかどうか、という論理的な問題は多くの人が容易に気づくはずだ。まあ、率直に言えば、自分が不利な立場に立てば気づき、有利な時は気づかないようである。
アンチテーゼというものは、なかなかしっくりとはまる訳語を見出すのは難しい。ここでは主題に対立するもの、という意味で使う。標題は、「民主主義は常に実体のない影の立場でしか存在しえないのでは」という意味である。
絶対王政であった頃、民主主義は眩しく輝いていた。王ではない。国民が自分達の手で決めるのだ!という白熱した思いは、今なお、社会の教科書からでさえも、歓声とともに感じられるほどである。その後何度も民主主義は砕かれ、しかし着実に歩を進め、ついにここ50年ほどで多くの国が普通選挙を手にすることになる。
ところが、民主主義の制度が整えば整うほど、あれほど眩しく輝いていた民主主義が見窄らしく感じられるようになる。今回の選挙は民主主義ではない、ここをこうすればこっちが勝っていたなんて話はザラにある。国の決定に反対する県の意見に反対する市町村、なんてのもどこかで聞いた話だ。どの立場の人間も、私の民主主義は満たされていない、私の思う通りになっていない、という不満を持ち続けている。
つまり、民主主義は、民主主義に対してさえも、アンチテーゼとしてしか存在できていない。もちろん、逆に、すべての個々人が自由にできる世界というものが社会的ではないのは容易に想像できる。民主主義の行き着く先はアナーキズムではないが、かといって何か一つの体制でもない。民主主義という方程式には解がない。
民主主義という時、人々は自分の都合の良いように切り取る。それは非常に滑稽に見えるが、逆に言えば民主主義が成立するための隙間、遊び、設計公差がそこにあるのかもしれない。公差がなければ歯車は回らないが、あまりに遊びが大きければそれは誤差でもある。
どうもこのところ耳にする民主主義とは、全体に正義の御旗として輝きすぎており、目がくらむ思いがする。この言葉が何を指し何を排除しているのかというのは、非常にシビアな問題であるはずだが、少し軽すぎ、もはや浮いているようにも感じる。
「偽ニュース」は危険、迅速な対策を=クリントン氏
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=52&from=diary&id=4334268
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