私は勉強をしたいんだ、私学に入りたいから国は金を出せ、と、
大阪で大騒ぎした女子高校生をなんとなく思い出します。
一方で、かつて大学は大人になる前に好き放題遊べる場所、という認識もありましたし、
現在も少なからずそれに近いイメージを持つ高校生も多いのではという気はします。
大学とは本来高等教育であり、必要な人間、相応の人間にのみ与えられれば良い教育だと思うのですが、
現在は就職ツールとして、不可避の存在になってきているようです。
企業も大学からの新卒者を中心に採っていますしね。
この辺りは、アジア人的な(中国も韓国も似た状況なので)発想が強いのかな。
もはやこの時点で、能力主義など遥か彼方に吹き飛んでいるわけで、
迷走していると言ってもいいでしょう。
教育による国民全体の知的レベルの底上げ、というものは重要ですが、
基本的にはそれは義務教育で担われるべきものです。
ですので、例えば高校までを義務教育にする、というような議論であれば問題はないと思います。
教育内容というものは時代とともに増加しますし、
同時に社会的成熟というのも遅くなっていきます。
しかし、大学という高等教育にまで、希望者全員参加をさせることに意味は感じません。
勉強をしたい、という意味が問われる時代のような気がします。
有名企業に就職させるための大学に意味があるのか。
私はあくまでも高い教育が必要な分野、医療や法曹関係に象徴されるような、
一定以上高度な専門家を養成するためのものであればよいのでは、と思います。
そういう意味での大学教育と、その結果としての「学歴」であれば私は肯定します。
しかし、交友関係を満足させたいという憧れのようなもの、
学歴欄にまともな大学を書きたいという見栄のようなもの、
有名企業に就職できるツールとして、
あるいは有名企業が人を集めるための仕分けラベルとして、
学歴が存在するのであれば、私はそれを否定したいと思います。
ここでいう、給付型奨学金というものは、
受給者が何をするための奨学金なのでしょうか。
受給者側の目的意識や金銭感覚が薄いのも、そのあたりの目的意識に差がありそうです。
そのあたりを踏まえずに、多くの人が欲しがっているから差しあげろ、というのは、
衆愚政治の最たるものだと思います。
■返さなくてもいい「給付型奨学金」 どう考える?
(産経新聞 - 05月22日 13:09)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=133&from=diary&id=4004693
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