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2018年02月07日14:08

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書評・武藤一雄著『神学的・宗教的学的論集�掘�

書評・武藤一雄著『神学的・宗教的学的論集�掘戞柄亙玄辧�

昨年(1993年)の十月に武藤一雄先生の『神学的・宗教哲学的論集�掘戮�まとめられた。この論文集には、キリスト教の諸問題を論ずる論文が四編、西田哲学に関連する論文が一編、田辺哲学に関連する論文が二編、そして西谷哲学に関連する論文が一編の、計八編の論文が収められている。

武藤先生がご自身の宗教哲学論集をあえて《神学的・宗教哲学的論集》と言われる理由について、先生ご自身が『論集�供戮房�められた『神学的宗教哲学について』という論文の中で次のように述べられている。「神学と哲学の媒介的地位に立つことを意味するのにほかならない」と論じられており、そのことが武藤神学的宗教的学の独創的な立場を表しているように思われる。

武藤神学的宗教的学の独創的な立場は、神学と哲学との媒介的地位にあると考えられる。では、神学と哲学との媒介的地位とはいかなる地位に立つことであろうか。この小論では、『論集�掘戮房�められた論文、『宗教における「内在的超越」ということについて』から考えてみたいと思う。

武藤先生は、《宗教における内在的超越》という問題を、西田幾多郎の最後の完成論文である『場所的論理と宗教的世界観』のなかから取り上げられる。この《内在的超越》という言葉は西田幾多郎の『場所的論理と宗教的世界観』において、絶対と相対との関係、神と人間、あるいは世界との関係、さらに宗教と文化との関係を問題とするなかで論じられている。とくに、宗教と文化との関係を問題とする場面で、西田幾多郎は、新しいキリスト教的世界は内在的超越の方向に開けてくると論じ、「真の文化は宗教的でなければならないと共に、真の宗教は文化的でなければならない。」と論じている。本来的に文化と宗教とは相互に否定的に対立する。特に高度に発達している化学義塾の世俗的な文化においては、宗教は根本的に否定されている。それは、神を見失い、神に見捨てられたような世界であり、そこでは人間が人間を見失い、世界が世界を見失ってしまったかのような状況にあると言わざるを得ないのである。

このような現代の精神状況に立たされて、武藤先生は新しい将来の宗教、そして新しい将来の文化を形成していく途が《内在的超越》の方向でなければならないと論じる西田幾多郎の考えに注目される。「自然法爾的に、我々は神なき所に真の神を見る」とか、「我々は真の文化の背後に隠れた神を見るのである。」という西田幾多郎の言葉に深い意味を見出されるのである。「それは神を見失い、或いは、神に見捨てられたかのごとき世界が、その神否定の極において逆対応的に神に接するということにほかならないであろう。そしてまたそれは、世界と等根源減的な人間自身が、自己の有限性(相対性)に徹すること、《自己自身の無の根源、罪悪の本源に徹見する》という自覚と一枚でなければならないであろう。《我々の自己が死によってのみ逆対応的に神に接する》ということにほかならないであろう」と、西田幾多郎の論文『場所的論理と宗教的世界観』のなかのにある《宗教における内在的超越》を意味づけるのである。

武藤先生は、『宗教における「内在的超越」ということについて』という論文において、《宗教における内在的超越》という観点からルターの「隠された神」という思想へと展開されてく。そのことは、西田幾多郎が「我々は真の文化の背後に隠れた神を見るのである。」と語っていることにも関連されられているように思えるが、ルターの「隠れた神」という思想がキリスト教においても《宗教における内在的超越》を見出そうとされる武藤先生ご自身の姿勢であり、西田幾多郎が語った�狷盧濺�超越の方向に新しいキリスト教的世界が開かれてくる�瓩箸いΩ斥佞法◆岼豸弔離廛蹈謄好織鵐函廚箸靴討凌�仰に基づき、西田幾多郎と対決していこうとされる武藤先生の信仰の深さが読み取れてくるのである。

さて、ルターの「隠された神」という思想は、キリスト教において展開されてきた《隠れた神》という思想のなかで最も注目すべき思想だと、武藤先生は指摘される。というのは、神はその啓示においてもなおどこまでも隠されているというところにルターの「隠された神」という思想にはあるからである。つまり一方では、神はキリストにおいて自らを啓示する。しかし他方では、神は自らを啓示してもなお隠されて神のままなのである。このような二つの側面を持つところに、ルターの「隠された神」という思想が持つ独自性があるというのである。

ルターの「隠された神」という思想については、必ずしも一義的な理解は許されておらず、種々の景気が含まれている。そのことについて、武藤先生によれば、神はキリストにおいて自らを啓示するという側面がルターの「隠された神」という思想の「十字架の神学」の立場が想定されたことを意味する。しかしながら、神はキリストの啓示においてもなお隠されているという側面は「隠された神」が「顕された神」としてのキリストとの媒介的相即関係をも超えていることになる。そこに「十字架の神学」のパラドクシカルに「自然神学的にして形而上学的」に規定された側面を意味することになるのである。ここにルターの「隠された神」という思想を一義的に理解することが許されない種々の契機が含まれ、様々な議論が起こった所以でもあると、武藤先生は指摘されている。

このようにルターの「隠された神」という思想についての議論を踏まえて、武藤先生は次のように結論付けられる。「ルターの「隠された神」という思想が自然神学的に、さらにまた形而上学的に規定されると言い得るならば、それは、どこまでも十字架の神学によって規定され止揚されたものでありながら、しかも、《内に超える》ものとして、深く哲学的思惟の立場に結合し得る思想であると考えせれる。」

武藤先生の結論は、新しいキリスト教的世界を開ける可能性を《宗教における内在的超越》に見出そうとした西田幾多郎の思想を、キリスト教の立場に立ち、ルターの「隠された神」という思想を以ってして具現化したものだと読み取れるであろう。武藤先生は、ご自身の宗教哲学の立場を�狄棲愿�・宗教哲学�瓩噺世錣譟△修僚ゞ掬�学が意味するところは「神学と哲学の媒介的地位に立つことを意味するのにほかならない」と言われたことは先に述べた。そのことをこの『宗教における「内在的超越」ということに』という論文においても「キリスト教神学というものがいわゆる神学主義というものに閉鎖することなく、しかもどこまでも自己自身に徹することによって、いわば内在的に自己を突き抜ける(内在的に超越する)ことによって宗教哲学的とならざるを得ないということ」だと論じられている。まさしく武藤神学的宗教哲学がもつ独創性は、キリスト教的信仰の立場に立ちながらも、しかも《神学と哲学の媒介的地位に立つ》ところにあり、そこから現代のキリスト教神学が抱える諸問題にアプローチしていくところにあるといえよう。そしてそれゆえに、武藤神学的宗教哲学においては《宗教における内在的超越》が重要な意味をもってくるのである。

『宗教における「内在的超越」ということについて』という論文は、かつて『宗教哲学の新しい可能性』のなかに収められていた論文である。武藤先生がその論文を再度、世に問われた意味もこのような点にあるように思われる。
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上記は、1994年5月に原野栄二先生が主催されていた同人誌『雲』に寄稿した「書評・武藤一雄著『神学的・宗教哲学的論集�掘戞廚箸いΩ狭討料簡犬任△襦�

武藤一雄先生は、田辺元のお弟子の一人であり、京都大学文学部哲学科キリスト教専攻の主任教授を務められた。武藤先生は、お若い頃、キェルケゴールを研究され、キェルケゴールの�狃ゞ毅繊淵�リスト教神学主義)�瓩鉢狃ゞ毅臓覆修梁晶ゞ気汎嬰�にキリスト教を扱おうとする宗教主義)�瓩箸梁侘�から、キェルケゴール後のキリスト教神学における�狄棲惻腟銑瓩鉢狃ゞ擬腟銑瓩箸梁侘�を媒介的に止揚しようとするところに、新しいキリスト教神学、そして独創的な宗教哲学を構築されて行かれた。

ところが最近は、武藤一雄先生のお名前を聞くことがなくなった。ほとんど武藤先生を取り上げられる機会がなくなったのである。だからこそ、もう一度、武藤一雄先生の宗教哲学の意味を取り上げたいと思い、30代のわたしの拙文を掲載したのである。

わたしが武藤先生の論文に関心を持つようになったのは、�狃ゞ気砲�ける内在的超越�瓩箸いΩ斥佞任△辰拭�わたしがその言葉に注目したのは、武藤先生と同じく西田幾多郎の『場所的論理と宗教的世界観』であった。西田はその論文のなかでドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』にある「大審問官物語」に登場する�爐△燭�も影の如く終始無言なるキリスト�瓩髻崙盧濺�超越のキリスト」と論じている点にあった。もともとはその西田が論じる�狷盧濺�超越のキリスト�瓩鮗臑蠅箸靴織┘奪札い鮟颪�たいと思い、武藤先生の論文を読むようになったのだ。

あれから20年以上が過ぎた。しかし未だそのエッセイは未完のまである。
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