(京ものがたり)鳥越俊太郎と円通寺の借景 我が歩み、見守り支えてくれた静寂
苔生(こけむ)した庭に大小40余りの石。その配置がもたらす遠近の妙に浸りながら、視界を垂直に区切るスギとヒノキの木立の奥、額縁に納まったような比叡山を望む。
「なぜか落ち着くんだ。1、2時間、ただボーッと見ているだけなんだけどね。時間がたつのを忘れてしまう」
鳥越俊太郎がこの借景と出会ったのは、京都大学に学んで5年目を迎えた1962年の春ごろ。それまで暮らしていた銀閣寺の近くから、市街の北のはずれに引っ越した。近所を散策していて、ふらっと立ち寄ったのが円通寺だ。
枯山水の庭の縁側に腰を下ろした。観光客はほとんどおらず、静寂が広がる。東の方角、遠くに見える比叡山は青々としていた。心が洗われる、という表現がぴったりの景色にひと目ぼれした。
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当時、合唱に夢中だった。父俊雄がかつて所属し、母綾子と知り合うきっかけになった京都大の合唱団に入り、一番声が低い「バス」を担当していた。おおぜいが団結して一つの音楽をつくりあげることに魅了され、学業そっちのけで打ち込んだため、卒業に7年もかかった。借景が胸にしみたのは、回り道の途上だったからかもしれない。
25歳で大学を卒業し、新聞記者になった。社会部や週刊誌編集部で活躍し、テヘラン特派員時代にはイラン・イラク戦争を現地から伝えた。テレビの報道番組のキャスターに転身して、桶川女子大生ストーカー殺人事件などでスクープを放った。ニュースの現場を飛び回る合間、円通寺に足を運んだ。
借景が危機に陥ったことがある。市街のはずれだった寺の周辺にも宅地開発の波が押し寄せ、比叡山との間に高層マンションの計画が持ち上がった。「もうこの景色が見られなくなるかもしれない」と言う住職北園文英(69)の寂しそうな表情を、鳥越は覚えている。住職らが奔走し、2007年、京都市の景観条例に庭と一体である比叡山の眺めを守る項目が盛り込まれた。
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初めて借景を目にしてから50年が過ぎた。20回、30回は通っただろうか。振り返ってみると、来るときはほとんど1人だった。猛烈に仕事をした時期をへて、05年に直腸がんを患い、転移した肺や肝臓も切除する手術を受けた。老いや病と向き合い、借景の見え方は変わった。
「若いときは美しさにひかれたが、年をとるにつれて自分の人生と、あの風景を重ね合わせてみるんだよ。自分の歩みを折々に見守ってもらい、ときに支えてくれたのが円通寺の借景だね」と語る。
一足早く色づき始めている比叡山を追うように、庭はいま、日に日に秋の色合いを濃くしている。
=敬称略(梶山天)
<鳥越俊太郎(とりごえしゅんたろう)> 1940年、福岡県生まれ。65年に毎日新聞社に入社し、サンデー毎日編集長などを務めた。89年からテレビ朝日の報道番組「ザ・スクープ」のキャスター。桶川女子大生ストーカー殺人事件を独自に検証して被害者報道のあり方を世に問い、2001年に日本記者クラブ賞を受賞した。
■おこしやす
円通寺(京都市左京区岩倉幡枝町389、075・781・1875)は、もとは幡枝離宮という後水尾天皇の山荘で1678年に寺に改められた。借景が美しいのは、のちに上皇となった後水尾天皇が比叡山の眺望が優れた場所を探し求め、この地に山荘を設けたからだと伝えられている。
拝観時間は4〜11月は午前10時〜午後4時半、12〜3月は午前10時〜午後4時。11月11日午後2時から、檜皮葺(ひわだぶ)きの山門にかわって新たな門となる、鬼瓦が載った「天寿洞」の除幕式がある。
宝が池公園(京都市左京区上高野流田町)は1964年の開園で、野鳥を観察できる施設もある。宝ケ池は江戸時代に農業用のため池としてつくられた人工池。
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上記は、2015年10月27日朝日新聞夕刊に掲載されていた、�燹糞�ものがたり)鳥越俊太郎と円通寺の借景 我が歩み、見守り支えてくれた静寂�瓩箸いΕ灰薀爐料簡犬任△襦�
わたしも学生時代、京都・岩倉にある円通寺にはよく行ったものである。
円通寺は禅寺であり、小さな苔が生えた枯山水の庭は、比叡山そのものを取りこんで壮大な世界を描いている。�狆�が大を呑み込む�瓩箸いΔ�、壮大な比叡山を小さな枯山水の庭に取り込んでいるところに、わたしは�犇�の世界�瓩鬚い弔皀ぅ瓠璽犬靴討い拭A喫�教が持つダイナミクス沙、スケールの大きさをその円通寺の庭に見ていたのである。
まさに�狒掬�世界�瓩修里發里如△修猟蹐鬟椒韻辰堂浸�間でも流れていたものである。
わたしが行くときは、わたし一人ということが多かったが、時より若い女性なども身に来たりしていた。そんな時に寺の僧侶が「この寺は・・・・・・・・・」と決まって説明を語り始める。その説明はいつも同じで、わたしは聞いている裏に覚えてしまった。そして若い女性がかえると、僧侶もどこかに引っ込んで、またわたし一人になる。
「全く、この寺の僧侶はエロ坊主ばかりか」と思いながら、また壮大な�狒掬�世界�瓩鯢舛�出した円通寺の庭を見ていた。
ある時、若い数人の女性が庭を見に来た時があった。その時は僧侶がまだいなかったので、わたしが総理から聞いて覚えていた寺の説明を始めたことがあった。しばらくして僧侶が入って来た時、わたしが数人の女性に寺の説明をしていることに気付いた僧侶は、
「俺の楽しみ、いや、俺の仕事を取るな」
と、わたしを怒鳴ったことがあった。それを見てわたしは、
「やっぱり、お坊さんも女の人が好きなのですね」
と、笑いながら言い返してやったことがあった。
円通寺には、円通寺前というバス停で降り、円通寺に行き、帰りはあるいは円通寺から叡山電鉄の期の駅を通って、岩倉駅の周辺に出て、同志社中高のグラウンドまで歩いて、そこからまたバスに乗って帰って来たものである。
わたしが円通寺に行っていたのは、30代半ばぐらいで会社勤めを始めた頃にもよく行ったりはしていた。しかし歩行につえが必要になってからは全く行かなくなってしまった。
�燹糞�ものがたり)鳥越俊太郎と円通寺の借景 我が歩み、見守り支えてくれた静寂�瓩箸いΕ灰薀爐鯑匹鵑如�円通寺に行っていた頃がとても懐かしく思えるのである。機会があればまた行ってみたいと考えている。
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