見た目がキレイだから芸術だとかいうのじゃなくて。
記事に出ていた回転ずしを味わうヒトの心の働きが芸術です。
もちろん、高級なら芸術で廉価なものは芸術ではないとかいうアホ理論もなしですよー。
偉そうに他の人に語ってしまったことがあるのです。
「芸術というのは潜在を顕在に変える作用のことだ」なんて。今でも思っているのですけれど、流れで偉そうな感じになってしまったのは恥ずかしい。この「芸術」を「美」に変えても通じると思います。「美」の場合は多少偏りがあるかもしれません。「自分の心にもともと持っていた快感をとりわけ強く引き出す」という作用が期待されていると美に分類される気がします。
回転ずしから抽象して教訓を得ようとする心の作用もまた芸術だなあと思います。
みんなすごいなあー!
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結構深い……回転寿司から学ぶことって?
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=116&from=diary&id=3477889
寿司というと「高級な食べ物」というイメージだが、安価で食べることのできる回転寿司は、本格派の寿司とはまた違った、ひとつのジャンルとして発展している趣きがある。
ネタはバラエティーに富み、時として斜め上を行き、そばやうどん、パフェが用意されている店もあり、回転寿司と寿司は「似て非なるもの」といっていいだろう。
さて、「教えて!goo」には、「『回転寿司』から、どんなことを学びますか?」という質問が寄せられた。改めて回転寿司を観察してみれば「有意義な社会勉強の場」にもなりうるようで、興味深い回答が続々寄せられたので、以下に紹介したいと思う。
■ずばり「回転寿司」に関すること
まずは、回転寿司そのものに関する回答を。
「どの業者(どの店)もそれぞれに趣向をこらし、時々刻々と(ネタやサービスなどを)進化させる姿が目に見えるのは、色々な意味で勉強にはなります」(rimurokkuさん)
「北海道ではどこでも美味しいから本州の大手回転すし店が無い」(アロさん)
「ほとんどの客がダイレクトに注文するので、回っている意味がなくなってきているような気がします」(localtombiさん)
系列店や店舗によってメニューがだいぶ異なるのが、回転寿司の特徴である。回転寿司業界の競争の熾烈さをうかがわせる。
■世の真理を学ぶ人たち
続いて、回転寿司における独特の食事形式から、数々のことを学んだ方々の回答を。
「流れて来たチャンスはつかめ。二度と来ないかもしれないから」(haiji1996さん)
「取りたかった寿司の皿をよそ見してて取れなかった……でもまた同じ寿司を乗せた皿はまわってくる……希望を捨ててはいけない……それは人生と同じ」(beni-sakuraさん)
ひとつの事柄でも、視点を変えることで、このように全く違った意味の教えを見出している点が興味深い。
「『お茶は自分で淹れる』『欲しいものは躊躇無く取る』『無ければ躊躇無く注文する』というところから、『自分のことは自分で』『欲しいものはぶん取れ』『他人の目は気にするな』を学びました」(settimo_angeloさん)
「人の好みは様々だから、世の中がうまく回ってるんだなーと思います。自分の苦手なネタが誰かの好物だったり、その逆もまた然りで」(tipsさん)
「『待つことの重要さ』『えびとアボカドは合う』」(berntakiiさん)
「『美味しいは正義』。揚げ物やら焼き物やら、寿司の定義からかけ離れたようなネタも多々あるんですが、美味しいです。定義にこだわらず、自分の味覚に正直になる。これは食べ物に限ったことではないですね」(05051036さん)
皆さん、様々なことを回転寿司から学んでいるようだ。次回、回転寿司に行く機会があったら、ぜひあなたの視点で観察してみてほしい。あなたならではの人生哲学を発見することができるかもしれない。
武藤弘樹(muto koki)
◆
(超耳)
>人生哲学を発見することができるかもしれない。
哲学を持つ自分に出会えるとしたら芸術ですね。外側には哲学なんかないと思うから、回転ずしを食べて出会える哲学というのはもとから自分の内側に蓄積された経験やデータの統合と懐石と攻略法であることでしょうね。
>「人の好みは様々だから、世の中がうまく回ってるんだなーと思います。自分の苦手なネタが誰かの好物だったり、その逆もまた然りで」(tipsさん)
これいいですよね。
ちょっと話をふくらませると、他人が様々だからこそ、自分も豊かになると言うことができそうです。関心が薄かった分野にも「あの人が言うのなら」と手を出してみたらおもしろさが理解できたりすることってあります。
回転ずしで自分の気付かなかった好みを見つけることくらい、誰にでもある体験のような気がしますし。
回転ずしは他者に対して何かを気づいてもらおうとか隠されたものを暴こうとかいう意図はないので、積極的な芸術ではありませんけれど。でも製作者の意図など、ささいなことなのです。文学作品において「作者の考え」なるものが生きているヒトの実体である作者とはまるで無関係に成立するように。(成立しますよー。機会があったらいつか言いますね)
気づかれないままの芸術、値札の数字でしか知られない芸術より、よほど芸術の核に近いなあと思います。
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